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2017年5月31日 (水)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(5)~4.心のうちの言葉

Nabisvoul2_2  前のコーナーでヴァロットンとの比較で素通りしたヴュイヤールの「八角形の自画像」という作品です。ちょっとゴッホの晩年の自画像を想わせるところもあるのでしょうが、絵の具をベタ塗りして塗り絵のようになっているところなど似ているのですが、ヴュイヤールの方はゴッホの作品のような重量感は、あまり感じられないものとなっています。ゴッホに比べて色彩の鮮やかさをアピールしているところが、ヴュイヤールの特徴だと思います。“自身の自然な顔色を単純化した色彩に置き換えている。ブロンドの髪は黄色に、赤毛の顎ひげはオレンジ色に、肌の色はピンク色に、その色調を仕上げているのは、ジャケットの群青色である。”と説明されていますが、塗り絵のように色の対象になっています。顔の左半分が影がかかっていますが、それが陰影となって顔を立体的に見せているのではなくて、茶色の塗られた色の面というように、この作品では、色の塗られた区画で、その区画が人の顔の形になっています。とは言っても、前のコーナーで見た「エッセル家旧蔵の昼食」では、色の使い方や色の面だけに還元したような描き方をしていないので、ヴュイヤールは、この作品では、このように描いているというのだろうと思います。むしろ、「エッセル家旧蔵の昼食」と共通していると思えるのは背景の木の枝に実がついているような赤と青の点が散りばめられたような描き方と、色の塗り方が筆触を勢いとして残しているところです。それは、ゴッホのようにその筆触が文様のように残って、呪術的な強い存在感を主張しているのではないですが、これによって、一様にベタッと塗られていないとNabisvoul3 ころが、模様のような装飾性を感じさせます。それは、肖像画といっても、王や貴族のような偉い人が、その偉さや偉大さをアピールさせるものとか、あるいは、人物の性格や人間性がにじみ出てくるようにして往時をしのばせるといったものではなくなっています。表面的な見てくれだけが描かれている。ヴュイヤールの場合には、ヴァロットンとは少し違いますが、演劇の舞台のような作為が見え隠れします。演劇の舞台では、不特定多数に観衆に向けて、本来のひとりの人間の複雑な感情や思考の微妙な綾や陰影、あるいは伏線を示すことはできないので、ストーリーに関係するところ単純化して強調、あるいは誇張して示します。それが演技ということになるわけですが。観衆に分かってもらうためには、すべてが明確に分かり易く表われ出ていなければならい。したがって、顔を、このように描くことができる。絵画において、ヴュイヤールは、そういう見方しかできないというのか、表面しか見ようとしていないので、人の内面に隠された心といったものではなくて、かたちとしてあらわれた仕草とかいった明確なものをピックアップして描いている。だから感情がうかがわれる微妙な表情のニュアンスを読み取るといったことがない。この「八角形の自画像」では、広い額は、以前の肖像画であれば、年齢を重ねた落ち着きとか沈着さといった意味づけができるようなところですが、ここでは、単に額が広いという顔の特徴として見る事ができます。つまり、個性ではなくて、特徴が表わされているのです。人物を描くときに、目に表情が表わされること一般的ですが、ここでは、そのような意味づけがされずに、目という顔の部分の形が、人物独特の形の特徴を捉えて描かれています。目に表情を読み取りたい人には、空虚にしてか見えないかもしれませんが。それで、この人物の特徴を捉えることはできます。独特の色使いは、そのような特徴を捉え易くする工夫と考えることもできると思います。形、つまり、特徴がはっきりするのです。それは、他方では人物画の見られ方の変化も関係していると思います。おそらく、ヴュイヤールに作品を注文したり購入するのはブルジョワといった市民階級で、その住居、パリであればアバルトメントの居間とか寝室といったプライベートな空間に飾られるものだろうと思います。それは、以前の王族や貴族が宮殿や城といった公の広間や廊下などで、自身の権威をアピールする手段として立派な姿に描かせるのとは、ニーズの方向が異なっていたはずです。日常の生活をする場で、せいぜいが親しい友人や親類を招く程度の空間で、ご立派な姿を描いた肖像画があっても、場違いでしょう。それよりも、部屋の一部として納まっていたり、部屋を飾ったりといった機能が望まれていたのではないかと思います。その場合、表面的で、明るく綺麗な色であったほうがいいわけです。そういう綺麗な色が映えるには、グラデーションを効かせて立体的に描かれるよりも、平面的でもベタッと塗られているほうがいいわけです。そういう方向で人物を描いていくと、ちょうど、この作品のようになるのではないでしょうか。
Nabisbolnald3  ピエール・ボナールの「格子柄のブラウス」という作品です。展覧会チラシのタイトルバックに使われている作品ですから、今回の展覧会の目玉ということなのでしょう。前のところで、同じ画家の「庭の女性たち」という作品はモザイクのようだと述べましたが、この作品では女性の着ている服の格子柄が四角いモザイクの組合せそのものです。そして、背後の壁やテーブルの上の食器や女性の手の部分などもモザイク模様のように描かれていて、作品全体が模様のようになっています。とくに、この作品では、そういうモザイクの模様のように描くという手法が優先されているというべきなのが、人物を含め立体の影が描かれていなくて、模様の平面さが意図的であるのが分かります。こうして見ると、ボナールという画家は表現手法、あるいは対象を感覚する手法を優先する人であったように思います。ヴュイヤール以上に、物体の表層をなぞることを徹底しているようです。この作品でも人物の表情を表わすよりも、模様のように人物を描くことが優先されていて、ボナールという人は、人物も事物も単に絵筆を動かす対象としては同じで、いうなれば「ミソもクソも一緒」、単なる光の反射にフラット化されているようです。そういう冷めた視線はナビ派の画家たちに共通しているのですが、とくにボナールにその傾向が強いのが、この作品に端的に表われていると思います。
 おそらく、現代のイラスト等で問われているクリエイターのセンスというのが、このナビ派の人たちの作品あたりから、前面に表われてきたのではないのか、と私には思いました。それまでも画家の個性ということはあったと思いますが、それ以前に技量の差とか、画面を作る上での教養とか、そういったことによって、画面を隙なく仕上げていくことが、画家の土台としてあったと思います。しかし、とくにボナールの作品などを見ていると、画面を完璧に仕上げることよりも、画家が独自の視点で、風景や人物のある一点を取り上げて、それを今までになかったり、他の人ではやっていなかったように表わしてみせる。その手際が鮮やかであるとか、その表わし方に視覚的な快さを生んでいるとか、現代の言い方でセンスを感じるとしか言いようのないこと、そういう従来にない刹那的な感覚の心地好さを作り出している。これは、絵画の購買者が王族、貴族や教会から市民階級あるいは産業化による経済社会の進展によって産業家や振興のブルジョワに変化していったことと、消費社会が生まれたことによる変化も影響しているNabisdoni4 と思います。何やら難しげなことを述べていますが、かつては貴族などが画家のパトロンになって、作品を注文して描かせていたため、主題などの仕様が規制されていたものの、身分は保障され、じっくりと作品を描くことができたわけです。しかし、購買者が変わると、貴族から庇護を受けることはできなくなって、作品を仕上げて、それを販売するようなことに変化します。その作品というのは、画郎という小売店や展覧会に展示して、そこで目についたものが売れるというもので。そこでは、制作からじっくりと作品を見続け、作品を見る教養が備わっている貴族の場合とはちがって、ぱっと一見の印象で気に入って買っていく、あるいは画商のセールストークに乗って買っていくという刹那的な、衝動買いに近いような売られ方でしょう。そこで、売れるためには、他の作品よりも目立つことが第一です。そこで、このナビ派のように、伝統的な教養とか、長い時間で培われる絵画をみる目などがなくても、パッと目について、心地好く感じる要素だったのでないでしょうか。そう考えると、ナビ派の特徴というのが、時代の要請に応える必然性があったということが分かる気がします。そして、現在の感覚で、好き嫌いでみることが、ここで展示されている作品については、あながち的外れではないのではないか、と思うのです。特に、ボナールの作品を見ていると“藝術”というよりは“アート”というイメージが似合っているようで、それは少し前の世代の印象派と、大きく違う点だと思います。
Nabisdoni3  ボナールに比べるとモーリス・ドニの作品は、絵画になっていて(変な言い方ですが)、上手いという印象です。自身の婚約者をモデルに描いた作品「マレーヌ姫のメヌエット」では人物がちゃんと肖像画として様になるように描かれています。しかし、色白を通り越した蒼白に近い肌は人の温もりが感じられず、目は虚ろな感じで、顔に表情がなくて、不気味な印象を受けます。顔たちが整っているだけに、その不気味さに底知れないものを感じさせます。そして、ピアノの背後の、壁であるだろう背景が点描によって、現実にない背景になっています。それが、ドニが意識することなく、モデルの女性に見ていたものが、画面に表われてしまっている。おそらく、モデルは婚約者ということですから、親密で愛情溢れるような作品にするのが自然でしょう。本人も、そうしたかったのではないかと思うのですが、このような底意地の悪いような不気味な作品にはしたくなかったと思います。それが、そうなってしまったのは、画家が意識することなく描いていて、そうなってしまったとしか考えられません。そうであれば、画家の目が、この女性に対して、そう見えてしまったとしか考えられません。しかし、同じ年に制作された、キャンバスにバステルで描かれた「婚約者マルト」では、バステルの淡い味わいを生かした、親密で可愛らしい作品になっていると思います。
 ドニの「婚約者マルト」を突き詰めて追求したような作品が、ヨージェフ・リップル=ヨーナイの「花を持つ女性」という作品です。これは、今回の展覧会でも、私にとって収穫とも言える作品で、朧に霞んだような画面に、ぼんやりと浮かんでいるような女性の姿と、手に持っている花の赤が鮮やかで、その幻想的な画面に魅入られるようでした。 
Nabisflower  それと、ついででもないのですが、このような画家たちと比べるとヴァロットンの肖像画は次元が違うというのか、まるで写真のような迫真の描写で、しかも、写真にならず絵画の写真にない匂いのようなものを、あざといほど強調するように描いていて、この画家の単に技量にはしることをしない賢さ、というよりも屈折した姿勢に感心してしまうのでした。

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