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2017年6月15日 (木)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(5)~4.東方の光

 シャセリオーという画家の特徴としてオリエント/東方趣味のエキゾチックな要素が、とくに彼の後期の作品の現われているということで、ここに単独のコーナーをつくって展示されていたのですが、どうも私にはしっくり行かなかった印象なのです。展示されていた作品のほとんどが仕上げられていないような印象で、果たして完成したのかどうなのか。画家として、試しにスケッチしてみたとか、習作してみた、としか思えないものばかりで、作品として結実しているようには見えませんでした。彼が亡くなってしまったので、それが画家の中で消化されて作品としてまとまる以前に生涯を終えてしまったということなのかもしれませんが。ひいつの大きな違和感として残るのは、これまで見てきた彼の作品のあったキレイゴトの美しさのようなものが、作品として仕上がっていないためかもしれませんが、ここで展示されている作品では減退しているように見えることです。
Chasseriauconstan  「コンスタンティーヌのユダヤ人街の情景」という作品です。“天井から吊り下げられた揺り籠の赤ん坊をあやす2人のユダヤ人女性。おそらく家族だろう3人の姿は、聖母子と聖アンナも思わせます。優しく親密な一体感を示す母子像は、主題を問わず、シャセリオー作品に繰り返し登場するモティーフでした。シャセリオーの東方主題の作品の魅力は、異質な他者に対する視線が作り出したエキゾチズムにではなく、画家独特の深い共感とある種のノスタルジーの表現にあることを教えてくれる一枚です。”と説明されています。前に見た「気絶したマゼッパを見つめるコサックの娘」でもそうだったのですが、オリエント趣味のエキゾチックな要素であることの必然性といったものが、よく分からないで、強いてあげるとすると色彩の点くらいしか考えられないというのが、正直な感想です。そう考えると、この作品でも画面向かって左側の女性の紗のヴェールと黄色と青の二色の衣装といった信号機のようにどぎつい色遣いは、例えば、前のコーナーで見た肖像画や西欧の神話や物語を題材にした作品では不可能でしょう。画家の色彩の実験とか、今までにない使い方をしたいという時に、格好の素材としてつまみ食いしてみたくらいにしか見えないのです。私の個人的な偏見なのでしょうが。それは、仕上げの粗さにも顕われているのではないかと思います。これまでに見てきた作品では、表面が滑らかに、流麗に磨き上げるように仕上げられていたものが、ここでは筆触が残っていたり、絵の具の塗りがはっきり分かったり、むらがあったりといったように遠目には気になりませんが、近寄ってみると粗さが目立ちます。それを画家が意図的に、何らかの効果を図っているのならいいのですが、例えば、ロマン主義のドラクロワの場合などは、明らかに粗い描き方をすることによって生まれる画面上の効果を計算して描いているのが分かります。しかし、シャセリオーの作品では、それが、私には不明なのです。身も蓋もない言い方をすれば、シャセリオーの作品の売りは、ブルジョワの小市民的な安寧をワンランクアップの高級感で充足させる上品さと通俗的な題材のわかりやすい取扱であると思います。それは、没落しつつある貴族のような支配階層にとってもかつてのように持ちえなくなった教養の減退した状況でもノスタルジーに浸ることのできるものでもあったと思います。そういう、見る者の葛藤を招かず、見た目に心地好く、しかも贅沢で上品な体裁が整えられている、しかもチョイワルの感じのスパイスが隠されていてスノッブな虚栄心にも心地好いといったものだと思います。そこで、この「コンスタンティーヌのユダヤ人街の情景」のような粗さは、違和感をどうしても覚えるのです。
 また、この作品の向かって左側の立っている女性はポーズといい、かしげている首の軸がずれていてインド舞踊をしているような感じなのと、母親であるだろうに揺り籠の赤ん坊に全く注意を払っていないところなど、人形のように描かれているところは、そのポーズもそうですが、ギュスターヴ・モローの作品にでてくるヒロインに通じているところがあるように見えます。
Chasseriauhorse  「雌馬を見せるアラブの商人」という作品です。その中心であろう馬がイマイチで、しかも馬をとりまく人々の描写がたんにポーズをとっているのを写しているようにしか見えないので、現実感がほとんど感じられません。リアリズムを追求する画家ではないということは分かりますが、それではオリエントをわざわざ題材に選んだことの意味がどこにあるのかいという疑問を抑えることができません。例えば馬は「狩りに出発するオスカール・ド・ランシクール伯爵の肖像」の背景にあるかきわりと殆ど似たようなものです。ジェリコーの描くような、いまにも画面から飛び出してきそうな生き生きとした躍動感に筋肉に秘めているようなものではありません。人々も、こういう言い方をすると酷いかもしれませんが、趣向の変わった肖像画を描いてもらうためにコスチュームに凝った、言ってみればコスプレをした人々にしか見えません。おそらく、シャセリオーの作品を享受する人々のオリエント趣味には、応えるものだったのかもしれません。シャセリオーの作品を見ていると、健全ということ、それはよい意味でも悪い意味でも、それが個性となっていて、それがもの足りなさを覚えさせるところがあります。このようなオリエント趣味の作品を例にとって見れば、彼の師であったアングルが持ち前の緻密なデッサンを用いながら、あえてプロポーションのバランスを崩して意図的に歪んだ画面をつくってしまうような病的なところは、シャセリオーには見つけられません。そういう、シャセリオーの限界のようなものが、露呈してしまっているのが、ここで展示されているオリエント趣味の作品群ではないかと感じました。

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