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2017年6月23日 (金)

私はブルックナーをこう聴いている(12)~ⅩⅢ.ブルックナーとブラームス

 私という人間がブルックナーの音楽をどのように聴いているかを具体的にお話してきたつもりですが、ここでブルックナーの特徴と申しましても結局は私の個人的な感性のものなので、他の作曲家と比較することで、よりブルックナーの特徴が泛かび上がるのではないかと思います。とくにここでは、オーケストラの中低音を強調することで重量感溢れる響きをする点や、旋律の動きが和声の分厚い伴奏を伴う点、ソナタ形式等の音楽のかたちでガッチリ枠をつくりその中で音を自律的に動かしていくことで音楽をつくる点などでブルックナーと共通点の多いブラームスと比較してみることにします。
E11ja01  ブラームス晩年のピアノ小品を「間奏曲集」というタイトルのもとにグレン・グールドが演奏したレコード(グレン・グールド「ブラームス間奏曲集」)があります。この中の、例えば変ホ長調のOp117-1という作品は右手でスコットランド民謡をおもわせる素朴なメロディを淡々と弾き、左手で和音の伴奏をつけるという、全体としてもきちんとした三部形式にまとめられた、至って単純なものです。これをグールドは左手の和音伴奏をするとき、和音を構成する音を少しずらして弾きます。分散和音という程ではないのですが、これによって、左手の音が途切れなく連続しているように聞こえてきます。それだけではなく、単純に和音を弾いていたときは、ターン ターンと音に規則的な隙間ができていて、それがリズムを刻むように作品全体を秩序付けていたのに気づかされます。これは、失って甫めて気が付く体のもので、最近リリースされたヴァレリ・アファナシエフの演奏(ヴァレリー・アファナシエフ「ブラームス後期ピアノ作品集」 [COCO-75090])などでは顕著に聞き取れるものです。これをグールドは少しずらして弾くことで、この規則的なリズムを崩してしまいます。するとどうでしょう。作品全体の印象が、まるで今にも崩壊してしまいそうな、はかなげなものに変貌してしまうのです。そして、和音をずらし気味に弾くことで、それまで和音の響きの中に隠れていた、その一つ一つの音が現われるにつれて、度重なる転調などの際に、内声部に思いもよらなかったメロディが幾つも現われてくるのです。このような、未知のメロディの発見は素晴らしい体験なのですが、それだから、この演奏がいいというのではありません。ブラームスという厳格なほどがっちりとした構成で作曲した人の晩年の形式が裸で顕わになっているような作品が、実はちょっとのことで崩壊してしまいそうな危うさを持っていたこと、また強い形式感の裏には驚くほど豊穣なメロディが隠されていたこと、それが形式が崩れることで一気に花開いたこと、たった数分の小品にストイックな形式と豊穣なメロディとのこれほどまでの強い緊張があったことを、この演奏がまざまざと見せ付けてくれたことです。
ブラームスの音楽の魅力的な部分は、聴いている私には、常に隠されているものです。ロマンティシズムの枢要である内心を表わした旋律は、ブラームスの音楽では、あからさまにはならないのです。内声部の充実した分厚い響きのなかに、それは埋もれています。それを、幾重もの響きの襞をかきわけながら探していく、これがブラームスの音楽を聴く醍醐味です。
Remyakei  内声部が分厚く充実していることで接着剤のように機能して、テナーの高音部とバスで全体を支える低音部が一体となり、全体がひとつの塊のように聞こえてくる。ブラームスの音楽に感じられる重厚さとか渋さといったものは、こういう音づくりから生まれるものと考えられます。油絵の具をパレットの上で混ぜていくと最終的には渋く重々しいグレーになります。様々な絵の具を様々に混ぜることによって、このようなグレーに様々なニュアンスを与え、これを使い分けて微妙な光と影のニュアンスを表現した画家にレンブラントがいます。彼の代表作「夜警」は夜の闇と夜警の人々の持つ明かりの織り成す微妙な陰影が描かれています。そこでの夜の闇を表現している黒やグレーの色が、画面の上で一様ではないのです。画面上の場所によって色合いが異なっているのがわかるのです。多分絵の具の混ぜ具合が全部違うのでしょう。黒やグレーとして表面にあらわれている色の背後に様々な色が様々に隠されている。一見すると、一面に黒やグレーが塗られている地味で暗い作品のようですが、その背後には驚くほどバラエティに富んだ世界が隠されている。気が付いてみれば、その汲めども尽くせぬ豊かさの虜になってしまっている。それがレンブラントの魅力です。中間色に終始するようなブラームスのオーケストレイションには、レンブラントの色彩のような隠された豊かさがあります。それが、例えばグレン・グールドの演奏のようにはからずも露呈された時、あまりの豊かさに戸惑うのです。
 このようにブラームスの音楽は、<あらわれたもの>と<隠されたもの>の二極構造になっていて、主眼は後者にあります。上でも申しましたように、それを探し求めることがブラームスの音楽を聴く、ひとつの醍醐味と言うことができます。これに対して、ブルックナーの音楽には<隠されたもの>が存在しません。どこまでもあっけらかんとして、すべては表層に露わになっているのです。但し、そのすべてを聴くか否かは聴く者に任されているのです。その意味でブラームスなどに較べれば、聴き手にとってはなんと残酷な音楽なのでしょうか。

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