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2017年6月27日 (火)

私はブルックナーをこう聴いている(13)~ⅩⅣ. 第3楽章(1)

 これまで、細部に拘泥したり、寄り道をしたりで大分長く書いてしまっております。この第3楽章で、全体の半分を通過したことになります。しかし、ブルックナーのこの交響曲は前半に較べて後半は尻すぼみのように短くなっているので、この記事も予定の7割通過という感じです。もう少しでので、お付き合い願います。
 ヴァイオリンの循環するモチーフの繰り返しで、第3楽章は開始されます。これは第1楽章冒頭の“暗い波のような動き”の低弦の前のめりの上昇音階によく似ていて、両者のつながりを聴く者に想わせます。第1楽章では、この上昇音階に上方から被さるようにヴァイオリンの下降音階が降りて、双方の動きが絡み合います。さて、この第3楽章では上方からの下降音階の代わりに、低弦のピチカートが対応しています。まずヴァイオリンがモチーフを1回だけ語尾を下げない問い掛けのようなかたちで弾くと、ヴァイオリンの休止に差し挟むように低弦のピチカートがそれに応答します。それをもう1回。但し、この2回目はヴァイオリンは同じように問い掛けるのですが、応えるピチカートはほんの少しだけトーンが高くなります。この後3回目に至ってヴァイオリンはモチーフの語尾を上げて休止することなくモチーフを循環させます。対応するかのようにピチカートが追い掛けるように応答のモチーフを循環させる。そしてヴァイオリンのモチーフを弦楽器の各パートが受け渡しをするように重なりながら、クレッシェンドしていって小さなクライマックスに達します。そこでは、前半を弦楽部によってヴァイオリンの循環モチーフが主題提示のように強音で演奏されると、後半では金管部が対応するピチカートのモチーフを刻みます。[0:00~0:50]
 第1楽章の“暗い波のような動き”では、分散和音の上昇音階に対して下降音階、前拍に対して後拍、というように対比的な要素が並列されていました。この第3楽章では、ヴァイオリンの循環モチーフが推進力を持って前へ…と行こうとする傾向があり、低弦のピチカートはその動きを押し止めようとするような静止する傾向があって、両者の併存が劇的な動きを感じさせます。つまり、こうです。最初のところはヴァイオリンのモチーフがワンフレーズで、それが前へ行こうとする流れをつくります。しかし、休止とともに低弦のピチカートがその流れを堰き止める。もう1回。こんどは流れの勢いが強くなったのかピチカートのトーンが少しだけ高くなります。聴いている私は、ヴァイオリンの変化には気が付きませんでしたが、ピチカートのトーンが少しだけ高くなったのでヴァイオリンの変化があったのかもしれないと回想してしまうのでした。(このように繰り返しに着目してみると、同じことを同じに絶対に繰り返さない作曲家がいて、ブルックナーもショパンやモーツァルトなどと共にその仲間に入ると私は思います。)そして3回目。ヴァイオリンのモチーフが循環しはじめると流れは止まることなく勢いづきはじめます。静止する傾向のピチカートは勢いづいた流れを追い掛け押し止めようと何度も繰り返します。そして、強音での奔流のような音の洪水、そこでの循環モチーフが主題のように提示されます。流れは、何度か押し止められることで、ピチカートという堰に勢いをためられます。その堰を破り、勢いが増して流れを再開します。ただ単に前へ進むだけならスゥーッと流れていってしまうのを、一旦勢いをとどめることでグッと勢いをためて、凝縮した勢いを一気に放出することでカタルシスを生み出す。おそらくここで、ブルックナーを聴く人は、音の動きをとめることのうちに音楽の運動が生み出されるという逆説に気付かずにはいられないと思います。まして、ブルックナーの交響曲には、オーケストラの全楽器が音を止めてしまうという瞬間が確かに存在しているわけです。言うまでもなく、それはブルックナー休止のことです。この瞬間、音楽の演奏ということについて作曲家たちが周到に回避していたすべてが、一挙に許されてしまっていることで、聴く私を途方もなく動揺させるのです。と同時に、例えば演奏会場でオーケストラが音を出すのをやめてしまった時、客席にいる私は舞台上に自分自身と同じものを認めずにはおられず、そのことによって思わず粛然とするほかはないのです。いままさに演奏会という場を共有しつつある自分は、舞台の上で楽器を外すオーケストラと同じ姿勢で椅子に座って、同じように自ら音を発することを放棄し、静寂のなかで聴覚を集中しているわけです。音楽を聴くとは、総休止のときのように自らは音を発するという動きを止めたまま、集中して聴きいるという姿勢の上に成立する体験のことです。それを、便宜的な分類ですが、音を発する側も受け取る側もこの瞬間全く同じに共有してしまう。まるでお互いの境界が取り払われてしまうような経験です。そう思うと、私はここで音楽の演奏そのものの限界に触れてしまったかのように緊張せざるをえなくなってしまいます。しかし、音楽を聴くという体験は、日常生活のなかでのほんの一瞬にすぎません。演奏会が終われば、私は席をガサガサと立ち友人と感想を語り合うでしょう。日常の動きのなかで色々な物音を無意識のうちに発することになるでしょう。そうです、こんな体験はそう長くは続かないのです。そこでここでの演奏はいったいどうなってしまうのでしょうか。
 このとき、一つの転倒がおこるのです。休止は音楽の流れを一旦堰き止めることで、矯めをつくり勢いを増幅させるのではない。この音楽は休止というものを持ってしまったが故に、音の動きという例外的なことを開始しなければないないという関係が成り立ってしまう。このような転倒という現象によって、音楽を聴く私の現実の時間と音楽を聴くという時間とが重なり合うとき、音を発することをやめたオーケストラの各パートが、その徹底した静止ゆえに却って音楽全体に動きを与える契機となる。この場合の動きとは、音楽とそれを聴く私との関係がそれまでとは異なった意味を持ってしまうことをも含有することになってしまいます。アリストテレスは「詩学」のなかでドラマには発見と逆転が必要であると言っています。そして発見と逆転が同時に起こるのが望ましい。たとえばソフォクレスの「オイディプス王」では、オイディプスは自分がよき王となることを望むが故に、自分が父親殺しであり母親と結婚したことを発見する。こんなことを知ってしまったら、引っ繰り返らざるをえない。つまり、彼の人間としての存在が逆転してしまうのです。ブルックナーの音楽が、それほどの深刻さを持っているとは言い切れません。しかし、聴く者と聴かれる音楽との関係を転倒させてしまうだけのものは、確かに認めざるをえません。その意味で、この休止は劇的な動きを生み出していると言うことができると思います。ですが、聴く者にこのような試練とも言いうるものを課すブルックナーという音楽は、単にすばらしい音楽として済ませてしまうことはできるのでしょうか。
 つい、キィボートを叩く指先に力が入ってしまいました。第3楽章のこの部分にブルックナー休止があるわけではないのに、記述が飛躍してしまいました。

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