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2017年6月 3日 (土)

私はブルックナーをこう聴いている(3)~第1楽章開始部

 かなり前になりましたが、このブログを始めた頃に、当時よく聴いていた音楽について自己流で語ってみようと、書き始めたのですが、うまくいかないので、途中で投げ出してしまいました。そのことが気になっていました。それから何年も経ってしまいましたが、その続きを試みようと思います。かなり読み難いものですが、個人的なけじめのようなものです。
なお、その途中で投げ出してしまったのは、2010年の次の投稿です。
 それでは、続きを断続的に始めます。
3.第1楽章開始部
 それでは、アンプのスイッチをONにして、CDをトレイに乗せましょう。ちなみに使用するCDは、ベルナルド・ハイティンク指揮ウィーン・フィルの演奏のもの([PHCP-1675])です。この選択には特別の理由はありませんが、この文章を読み進めていくにしたがって、その理由を分かっていただけるのではないかと思います。
Bruknercd  まず、低音の木管楽器による持続音と同時に、低弦による前のめり気味のベース(アクセントがフレーズの最初にあって、聴いた印象が前へ前へ…という感じになる)に引っ張られるように上昇音階の分散和音が弦楽部によって2節繰り返されます。と、それに被さるようにヴァイオリンの下降音階の分散和音が絡んできます。なおかつ、この下降する分散和音はフレーズのアクセントが後にあるようで、聴いた印象が後へ後へ…という感じになります。つまり、ここで前のめりの上昇と後ろを振り向く感じの下降が絡み合うように併存しているわけです。このように曲の開始からわずか数秒のところで既に声部とそれに伴うリズムの交錯が出現してしまうわけです。しかし、この時点では未だ下降する分散和音は低音部の土台を欠いているため散発的に高音部を浮遊し明滅しているような印象で、前のめりの上昇する分散和音の勢いに従って全体の流れは前へと前進を続けます。少しだけ時間を戻して、下降する分散和音と同時に、トランペットによる持続音が奏せられると、この持続音に導かれるように第1音を長く伸ばすファンファーレのようなトランペットの動機が登場します。この動機の前半部は高音から音が徐々に下りてくるような旋律になっていて、しかもフレーズのアクセントが後にあります。この時に、前のめりの上昇する和音は伏流となり、対する下降する分散和音はパーパパパというトランペットの動機と相俟って漸く、前への動きと後への動きが均衡に達します。ここに至って低音の管楽器の持続音と共に、トランペット音が漸く上へ昇り動きの少ない旋律で流れ始めます。ここで音楽全体の流れは一旦一本化します。そこで、フルートが流れを波のような小さく上下するフレーズで短く受け継ぎます。この辺りでは、ヴァイオリンの下降する分散和音は第1と第2で掛け合いで奏され、伴奏の形をとっているかに見えて、実はトランペットやフルートの音の動きが少ないため、そのヴァイオリンが能くきこえます。この後に続くようにしてホルンの動機が始まります。この前のトランペットの動機が前半で下降して後半上昇する動きだったのとは対照的に、前半上昇して後半下降する動きをします。それだけでなく、トランペットの動機が後拍気味のアクセントでとどまっているような印象を与えるのとは逆に、ホルンの動機は先の方へ旋律が流れていこうとする印象です。これだけなら、まるで第1主題と第2主題の提示のようなのですが、この二つはスムースに連なり、ギャップがあらわになるような対立的な扱いはされてはいません。このホルンの動機の後半部分からヴァイオリンの下降する分散和音が裏返って前拍となって曲全体の推進力が増していきます。そして、この部分をフルートとホルンがワンサイクルずつ掛け合いをしながら、段々と掛け合いの幅が短くなっていきます。それと同時に全体の速度が増していって、参加する楽器がふえて音量も増していき、緊張感が昂まって最初のクライマックスに達します。ここまでが、このCDの演奏時間で、最初の1分間のことを、私が聴いた限りを記述してみました。この開始して未だほんの1分弱の間に、私のような、耳のクラシック音楽の鑑賞に慣れていない者でも、これだけの要素を聴き取ることができるのです。そして、これこそがブルックナーの交響曲の魅力のひとつであると言うことができるのです。これを、単に“弦の暗い波のような動きに始まり、まもなく、トランペットが序奏の開始の旋律をだす。まったくブルックナー開始そのものである。” (「作曲家別名曲解説ライブラリー5 ブルックナー」音楽之友社 P.57 19行)などと言ってすませてしまえるものでしょうか。例えば、“弦の暗い波のような動き”で一括されてしまう分散和音の刻みなどは、管楽器で奏される動機の伴奏を越えて、ここまでの間の曲全体の流れの主導の一翼を担っていると思います。この分散和音のアクセント位置の変動によって曲全体の流れが停滞したり流れたりしているのです。しかも“弦の暗い波のような動き”と単純にひとつの動きとされてしまっているのが、実は低弦の前のめりの循環と、ヴァイオリンの前へ前へ…という上昇と後へ後へ…という下降の分散和音の交錯があるのです。これらの異質な要素がたがいに排斥しあうことなく共存しているのです。どれかひとつの要素が主となって、他の要素が従となるような繰り返しはここにはありません。これらの要素がお互いに我を張って対立することなく、相互浸透的にまるでひとつの“弦の暗い波のような動き”に聞こえてしまうのです。これは弦楽器の動きのみに留まることなく、弦楽器の分散和音とトランペットやホルンなどの管楽器による動機にも言うことができます。こういう現象こそがブルックナーの音楽を特徴づけるものと言うことができるのです。諸要素が互いに否定することなく肯定しあいながら豊かな融合を実現していく。ブルックナーの音楽は全体を眺めるか細部に目を懲らすかという議論が片手落ちなのは、そういう点からなのです。そして、その融合が具体的な旋律や響きとして触知可能となったとき、豊かな広がりを与え、音楽全体の持続に生々しいリズムを生み出すのです。ブルックナーの音楽が、もっぱら音の運動として聴く者の耳に迫ってくるのはそうしたときです。
 このようなブルックナーの音楽の独自性は、他の作曲家の作品と聴き比べてみるとはっきり分かります。分散和音で曲が開始してその後に主題が導かれるものとして、例えばモーツァルトの交響曲第40番が有名です。ヴィオラの刻むシンコペーションのリズムに乗って、ヴァイオリンが小林秀雄が“悲しみが疾走する”と評した有名な主題を演奏します。ここでの分散和音は、あくまでもリズムだけを担当するものです。主眼はヴァイオリンで演奏される“悲しみが疾走する”メロディです。分散和音で刻まれるリズムは悲しみの主題を土台で支えていると言えます。
 また、他の曲、例えば、シューマンの交響曲第2番も弦の分散和音とホルンによるファンファーレのような動機から構成されるという、一見、このブルックナーの交響曲第3番に似ているように聞こえる曲です。しかし、シューマンの場合は、弦の分散和音とホルンによる動機のサイクルがずれているのが特徴的です。つまり、弦の分散和音の1フレーズとホルンによる動機の1フレーズの長さが違うのです。ここでホルンによる動機の1フレーズ終わったときに、弦の分散和音2フレーズめの途中にいます。その両者に間にズレが生じて、それが曲の進行につれて徐々に広がってゆくのです。このズレのひろがりから不安底感が生じてきます。また、シューマンの場合の弦の分散和音とホルンによる動機との関係は、あくまでも伴奏と主旋律の関係で、伴奏が主旋律に同調しながらも隙あれば前面に出ようとする緊張関係でもあります。不安定なリズム感と相俟って、ここから感じられる落ち着きのなさは、一種の躁状態として聴く者に印象付けられるのです。シューマンには「謝肉祭」というピアノ曲がありますが、まさにカーニバルとでも呼ぶべき乱知己騒ぎに終始一貫するところに、この作曲家の狂気が表れていると思います。ここに、シューマンの音楽の醍醐味と言えるものがあると思います。
 これらの音楽には、ブルックナーの音楽に見られるような、すべての要素を肯定してしまうような大きさは感じられません。

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