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2017年6月 7日 (水)

私はブルックナーをこう聴いている(6)~Ⅵ.ブルックナーとフリードリッヒ

Bruknerfred  前回の最後のところで、ブルックナーの音楽の中に強いコントラストを感じさせられる処があることを述べました。ここでは、そのことについて少し寄り道をします。
 18世紀から19世紀にかけてドイツで活躍したカスパー・ダヴィッド・フリードリッヒという画家がいます。この画家の描く風景画にはきわめて強いコントラストが内包されており、それが観る者に訴えかけてきます。たとえば、《山上の十字架(別名:テッチェンの祭壇画)》という作品。深閑たる森の中で、日没の淡い斜光を受けて山の頂に十字架が立っているというものです。しかも、十字架はキリストが磔刑にされている像なのでしょうが、真正面でなく斜め後からの角度から描かれて、観る者に背を向けています。見て下さるとお判りになると思いますが、前景の山の頂上部分はシルエットとなって壁のように聳えていて、奥への視界を遮っています。つまり、この山の向こう側に開けているであろう眺望を見ることはできないわけです。そして、この山の背後には遥かに夕焼けの空がひろがっています。ここには、多種多様なものが謂わば書き割り風に前景、中景、遠景、と配置された遠近法による空間の奥行のパースペクティヴが欠如しています。前景である山の頂上と遠景である空の間に空間的なつながりが感じられません。両者はまるで別々のように画面上で強いコントラストを形成します。さらに、前景である山の頂上の周辺の植物や岩塊は細部にわたって精密に描かれているのが、コントラスト感を尚更煽ります。また、前景の山はあたかも遥かな空中から眺めたように見えるのに、個々の要素はすぐそばから観察したように見えます。これでは、この絵を見る場合の視点というものが、はっきりと定められません。このように書いていくと、私がこの絵を貶しているようにみえるでしょうが、実はこれが魅力でもあるのです。遠近法というのは視点をしっかり定めて、安定したパースペクティヴのもとで三次元の空間的奥行を表現します。そのような絵を観る場合は、一つの特権的な視点から観察するが如く画面を静止的に享受することができるというわけです。しかし、《山上の十字架》では、それらしい視点がないのです。さらに、この絵のまわり額縁が特徴的で、額縁というよりは窓枠のような形をしています。この絵の視点は絵の内部にあるのではなくて、外部=窓の手前にあると考えられます。具体的に言うと、この絵を観る者は額縁=窓枠越しに観ることになる。窓の奥には足を踏み入れることはできません。しかし、視線は窓に導かれるように、前景、そして遠景とすすんでいきます。ここで前景の山頂の上に立つ十字架、磔刑になっているキリストは真正面ではなく、斜め後ろの角度から描かれ、観る者に背を向けています。このことが、観る者の視線を画中のキリストの視線と重なるかのように画面の中に引き込む作用を果たしていると同時に、遠景との分離をも意味しているのです。つまり、この絵を観る者は、見つめることはできても、足を踏み入れることも、手を触れることもできない世界を感じざるをえません。また、フリードリッヒのこの作品では、夕焼けの光に輝く遠景と暗くシルエットになっている前景という光と影のコントラストを形成しています。しかし、そこでも光の中心に向かって同心円を重ねるように薄い絵具を幾重にも重ねることによって、ごくわずかずつ均等に明るさが増していくような、純粋な光の集中的効果が生み出されているのも見ることができます。画面の奥へと順次視線を導いていくような遠近の奥行が欠けている空間は、輝きとシルエットによって隔てられるとともに、光の輝きの集中によって引き締められ、統一感を与えられているのです。
 ブルックナーの音楽に厳しさとか峻厳さを感じるという時、前章で触れたようなコントラストの強さによっているのではないでしょうか。その点で、フリードリッヒの絵画はきわめてコントラストが強く、しかも剥き出しになっていて、風景画であるはずのものが教会の祭壇に置かれてしまうという、観る者に宗教的な感情を抱かせてしまうもので、ブルックナーの音楽と通じるところがあるのではないかと思うことができます。しかし、フリードリッヒの作品を観て感じられるのは、慥かにブルックナーの音楽にも一脈通ずるようなコントラストの強い世界ですが、間をつなぐ中景の欠落した光輝く遠景と暗くシルエットの前景との断絶というように手の届かない遠い世界を自覚せざるをえないのです。遥かな光輝く世界への憧れはいつでも憧れに留まるからこそ強烈でありうるのであって、決して成就されえないものに意識的に向かい合うという、アイロニカルな意識のその一点に止まっているのです。謂わば瞬間の世界なのです。だから、観る者は強いコントラストの緊張に耐えられるわけです。もし、短くても1時間近くかかるブルックナーの交響曲にそのような緊張を強いられるとしたら、耐えられないのではないでしょうか。少なくとも、私は耐えられません。お互いに強いコントラストから緊張の高い世界を形成する点で共通しながら、ブルックナーの音楽にあってフリードリッヒの絵画にないものがあるようです。それについては、後の章で考えていきたいと思います。
Takerome3  次にいく前に、ブルックナーとフリードリッヒが袂を分かつものとして、フリードリッヒの側から《海辺の僧侶》という作品を挙げることができます。この作品は《山上の十字架》よりも更に要素を切り詰め単純化された空間を構成します。画面の大半が天空に覆われ、この茫漠たる空間の中に一人の修道僧と数羽の鴎、これがこの作品に描かれているもののすべてです。画面の六分の五あまりを空が占めています。その空は澄み静まりかえっています。嵐の気配もなければ、陽も射さず、日の光もなく、雷光も雷鳴の轟ききもありません。また、空の下に広がる海原には、艀も船影も何も見あたりません。砂丘には緑の草ひとつ生えてもいない。《山上の十字架》では前景と遠景が無媒介に対峙し合う画面構成によって、遠近のコントラストが強調されると同時に、中景は抜け落ちてしまって謂わば画面の深淵として空間の分裂を意識させられます。これに対して《海辺の僧侶》では中景が拡大され大きく拡がる空と海が虚無の風景として可視化され、深淵の象徴として観る者に迫ってくるのです。しかも、この虚無のひろがりが画面の中で水平に伸びていて絵の横で限定されていないため、果てしない印象を与えます。そして、画面の水平の無限の広がりに対して、唯一の垂直に交わるのが僧侶です。この僧侶は広大な風景の中でたった独りで立っています。さらに、この僧侶は後向きで、やや首をかしげ、手を顎にのせたメランコリックなポーズをとっていて、孤立性を強く印象付けられます。この絵を批評した劇作家のクライストは“…私自身がそのカプチン僧になった(ゲルトルート・フィーゲ「カスパー・ダーヴィド・フリードリッヒ」 松下ゆう子訳 パルコ美術新書 P.43)。”と言いました。この絵の僧侶の姿には、観る者を感情移入させるようです。フリードリッヒは《山上の十字架》では、観る者の位置を額縁=窓枠の外に置き窓枠を通した幻想の光景として示したのに対して、《海辺の僧侶》では観る者を絵の内部に引き入れ孤独の体験にさらしたと言うことができます。このような瞬間に凍りついたような超絶さというものは、絶えず動き流れるブルックナーの音楽からは感じることのできないものです。

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