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2017年6月13日 (火)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(3)~2.ロマン主義へ─文学と演劇

Chasseriauapollo  20代になったシャセリオーはロマン主義的な作品を次々に制作し始めたということで、「アポロンとダフネ」という作品です。ギリシャ神話で太陽神アポロンからの求愛を拒絶したダフネは月桂樹になってしまうというエピソードを描いたものです。逃れようとするダフネは身体を弓なりに反らして弧を描いている姿は、足元が樹木の根の張った姿に変容しはじめていて、身体をいっぱいに伸ばしているのは、アポロンから逃れようとするのと、樹木の幹の上に伸びる姿に擬しているのと両方でしょうか。その垂直の方向性に、こころもち弓なりの曲線がかかっていることで女性の身体の流れるような曲線が強調され、アポロンが追い求め、手の届かない美を強調しているように見えます。そして、ダフネの顔には表情はなく、これはシャセリオーの特徴のようでもある感情とか心の内面を、あまり表情として描こうとしないのか、敢えてそうしているのか分からないけれど、樹木に変容し始めていることによって表情を失い、アポロンの求めにすで反応も反対もしないという冷たい拒絶という様相になっています。一方、アポロンはダフネの足元に縋りつくように追い求めるアポロンの姿は、美に対する芸術家の届かぬ憧れの姿を体現しているという評もあるようです。この作品のアイディアや構図は、ほとんどそのまま後世のギュスターヴ・モローによって使われていChasseriauapollo2 て、モロー自身もシャセリオーに対するリスペクトもあったということで、その作品も並べて展示されていました。モローはダフネを痩身にして人間の肉体を感じさせないようにしてより抽象的にしています。この「アポロンとダフネ」という題材もギリシャ神話の有名なエピソードで、多くの絵画や彫刻で取り上げられてきました。それらに対して、シャセリオーとモローの場合に際立っているのが、ダフネの描き方ではないかと思います。つまり、他の作品では、ダフネはアポロンから逃げる女性で、アポロンに対して恐れの表情だったり、逃れようとして必死の顔、あるいは今にも悲鳴を上げる、アポロンを拒絶するといった、かなり強い表情で描かれているのです。むしろ、ロマン主義の立場であれば、個人の内面の動きを強調するのですから、それがもっと強調されてもいいはずなのに、シャセリオーは、反対にダフネに表情はありません。すでに樹木への変容が始まって、人間的な感情とか表情が失われている、ということなのでしょうが。むしろ、そのような人間から無機物になったところを描くところにシャセリオーの特異さがあると思います。それは、敢えて言えば、世紀末デカダンスの変態的な性向、ネクロフィリオとか、人形を偏愛するとかいった趣味への親近性です。それは、シャセリオーの趣向を継承したモローには、明らかに表われていると思います。
Chasseriauninfu  「泉のほとりで眠るニンフ」という作品で、140×210cmという大作です。“森の泉のほとりで眠る裸婦。木々の茂りが織りなす深い緑を背景に見事なプロポーションの白い裸体が浮かび上がる。ヴェネツィア派以来の草上のニンフの図像の伝統を踏まえつつ、画家はとりわけ古代彫刻を思わせる裸婦の典雅なポーズの表現に心を砕いたことが分かる。だが、彼女が脱ぎ捨てたらしきバラ色のドレスや金の首飾りなどがその体の下に敷かれており、この裸婦が神話のニンフではなく、19世紀の同時代の女性であることも明かしている。澄み切った地中海の青空ではなく、画面左手の木々の隙間からは落日の赤光が覗いていることから、夕闇が迫る時間帯であることもわかる。さらに、女性の体は古代彫刻のように無毛で描くことを一つの約束事としてきた絵画的伝統を逸脱して、両腕を挙げた裸婦の左脇の下にはうっすらと生えた毛が隠すことなく描きこまれている。ゆったりとした筆で置かれた緑、バラ色、金色のハーモニーが静かに醸し出す詩情の一方、写実主義の萌芽を見ることができる作品である。”という解説がされています。この解説で、作品の概要を言葉にまとめていると思います。そうやって概要を掴んだところで、さきほどの「アポロンとダフネ」を思い出しながら、この作品を見てみると、じつは、女性の描き方がかなり共通しているところが分かります。それは両腕を挙げたポーズで、腋の下を露わにしている。身体の全体を背伸びするようなポーズをとらせている。顔の中で最も表情を表わすことができる目が閉じられている。片や樹木に変容し、片や眠っていて意識のない状態であること。それらは、末節的なところではなく、本質的なところで、シャセリオーという画家の裸婦に対する嗜好、あるいは志向が表われているのではないかと思います。たんに二つの作品だけを抜き出して指摘するのは恣意的と思われるかもしれません。しかし、他にも彼の代表的な作品に数えられるた思われる「海から上がるウェヌス」にも共通しているのです。他にも「エステルの化粧」「テピタリウム」「オリエントの室内」といった作品にも共通していると言えます。では、シャセリオーの裸婦に対する嗜好、志向とはどのようなところか。ひとつは、両腕を挙げたときの乳房をはじめとした胸、そして肩の筋肉、上半身の形態に対する好みです。この場合、乳房は吊り上げられるようなこととなって、豊かなボリューム感は減退しますが、垂れ下がるようなことがなく引き締まったプリプリした感じになります。乳房の出っ張った形態がハッキリします。そして、乳房をつり上げでいる肩から胸にかけての筋肉が盛り上がって、線がくっきりします。さらに腋の下の窪みとの対照で、盛り上がりが強調されます。また、敢えて言えば、腋の下の窪みへの偏愛もあるのではないか。この場合、腋の下の窪みは陰部の窪みになぞらえていると想像することができます。だから、腋の下の腋毛をあえて描いたのではないか、と思えるのです。そこから、シャセリオーの女性の身体に対して腰部よりも上半身への偏愛とまでは行かないまでも、志向があったのではないかと思われるのです。そこで考えられるのは、出産ということを避けながら、女性を性的対象として見る視線です。
 それは、裸婦の女性が肖像画のように描かれて、人物の外形の特徴を見分けられるような描き方で、女性の裸の身体も描かれているということです。ルネサンスのイタリア絵画のような透明感のある青空の下で陽光を浴びてピンク色に輝くような肌ではなくて、室内の暗い灯りでほの白く浮かび上がる肌です。つまり、女神の肌ではなく、日常の現実生活で見ることの出来る肌です。それが却って生々しさを感じさせる要素となっています。しかし、かといって後のマネのような脂粉にまみれた不健康な肌ではないのです。そこにシャセリオーの時代性があり、彼自身の本質的に身についていた上品さがあったと思います。だから、裸婦の身体の美しさは、リアリズムに徹しているわけでもなく、肖像画がおしなべてそうであるように、人物の特徴を備えていながらも、見栄えのするように手を加えています。裸婦のポーズや画面構成はルネサンスのイタリア絵画のパターンを踏襲した立派な裸婦像の形態をとっています。そのパターンを踏み外すことなく、しかも前記のような嗜好で女性が描かれている。したがって性的な視線の消費の対象として、品質の高い裸婦像が出来上がってくるというわけです。
Chasseriaumazeppa  このコーナーでは挿絵としてペンで描かれ、版画として流通した作品も展示されていましたが、ここでは触れません。油絵作品を見ていきます。「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」という作品です。シャセリオーが数多く描いたオリエント風のエキゾチックな作品が、このころから制作され始めたということでしょうか。ロマン主義とかエキゾティシズムとか説明されていようですが、さきの裸婦像が視線の消費の対象となっているのと同じように、新奇さという点で観る者の消費の対象となる作品となっていると思います。ただし、そこにはシャセリオーの本来持っている育ちの良さゆえに、作品に品位を持たせて、芸術の絵画として伝統的な枠組みの中に収まっている。身も蓋もない言い方になりますが、私の見たシャセリオーのロマン主義とは、そのように映りました。作品に戻りましょう。“ポーランド国王に仕えてたマゼーパが有力者の妻と不義を働き、その罰として野生馬に裸で縛り付けられて荒れ野に追放された様子を描いた。”という題材で、過去にも題材とした画家が何人もいたということです。シャセリオーは“新たな表現を加えた。従来のように、危険に満ちた暗い荒野を疾駆する馬とその背で苦悶するマゼッパの姿を描き出すのではなく、本作での中心は、異国的な鮮やかな色合いの衣装と黒い瞳に黒い髪のコサック娘である。精根尽き果てて地面に倒れこむ馬を彼女が発見した瞬間である。時間帯は黄昏時であり、背景の夕空を織りなす茜色から薄闇のグラデーションや、飛び去る鳥のシルエットが抒情的でメランコリックな雰囲気をかもし出している。”と説明されています。この説明でも触れているように、この作品の眼目は、エキゾチックな少女の姿であり、野生馬とマゼッパの姿は少女と対照させるみじめさとして機能しているようてす。少女は、先ほど見たアポロンから逃げるダフネのように顔が分からないということはなく、顔の造作がちゃんと描いてあり、つかも目の大きな美少女という描き方のようですが、少女の顔には表情の片鱗もなく、ポーズも右手を無意味に伸ばしているだけで、たんに立っているだけの、まるで彫刻のようです。彼女には、普通であれば、目の前にあるように異常な出来事に対して、驚いたり、恐ろしくなったり、マゼッパの身体を気遣ったりするはずです。ところが、彼女は無表情で、良く言えば超然としているのです。それは、デカダンスの芸術家が好んで取り上げた、ファム・ファタールという周囲の不幸を糧にした美しい生き物のようにも思えてきます。つまり、シャセリオーという画家には耽美的傾向があるのではないか、ロマン主義というのは、そのための手段ではないかと思えてくるのです。もちろん、画家ですから美しさを追求するのは当然です。

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