無料ブログはココログ

« 私はブルックナーをこう聴いている(13)~ⅩⅣ. 第3楽章(1) | トップページ |  私はブルックナーをこう聴いている(15)~ⅩⅥ.第3楽章(2) »

2017年6月28日 (水)

 私はブルックナーをこう聴いている(14)~ⅩⅤ.ブルックナーと大友克洋

 大友克洋は「アキラ」や「童夢」といった作品を書いたまんが家です。芸術家ブルックナーと低俗な漫画家を同列に並べるのは不謹慎との声もあることでしょうが、その点は私の独断と偏見ですのでどうかお許し下さい。
Bruknerohtomo2  左図の女の子の絵をご覧下さい。この子は、物語の中では一応可愛い女の子とされてはいるのですがそうは見えません。目が小さくて吊り上がっている、鼻も低い、よく外国の漫画にあるような典型的な日本人の顔に近い、要するにミもフタもない日本人の顔になっています。少女まんがを見るまでもなく他のまんがの場合ならば、可愛い女の子を描くときは、目が大きくパッチリしていて(瞳に星が輝いている)鼻筋が通っているのが普通です。まんがというのは単なる絵だけではなくて約束事が沢山ありまして、これが可愛い女の子だというときには、その女の子に絵に可愛い女の子の記号を描くことが必要です。それが瞳の星だったり、その他であるわけです。二流のまんが家なら、たとえ絵が下手でもその記号と話の上でそうだという約束になっていれば、読者はそういうものとして読むものなのです。極端なことを言えば、女の子は美人とブスの二通りいれば、絵としてのまんがは成立してしまいます。美人は憧れの対象、ブスはギャグの対象です。そこで、美人には憧れ、ブスには諧謔という記号が数多くあるのです。しかし、大友克洋は図のようにどちらでもない女の子を描きました。つまり、憧れも諧謔も大友克洋のまんがにはないのです。
 Bruknerohtomo さらに、右図、殺した人間をぶつ切りにして冷蔵庫に入れたという場面です。私には人を殺してしまったという血生臭さのようなものが全く感じられません。死体を処理するときに流される血はただの大量の液体になっていて、死体は徹底的にただの物質になっているのです。ここで描かれている人間は、憧れやギャグの対象にはなりえません。むしろ、人間=生理的肉体とでもいうような描かれ方をしています。また、冷蔵庫の中を見てみて下さい。卵や飲料のビンが死体と一緒に描かれています。まんがというものは、必要でないものは省略してしまうものですが、ここではこういうディテールが描き込まれています。これは意図的なものです。つまり、人間の死体とビンが等価に扱われているというわけです。そういう人間を描くのに、細くて均質な線が用いられています。だから良いとか悪いとか倫理的に判断しない、倫理を飛び越えてこのキレのいい線が人間や物質を表現している。別の言い方をすると、何かとりつくシマのないという感じもします。あらゆる思い入れを排除する、それが大友克洋の軽みの正体だと思います。
 人間の内面のあらわれとしての感情を表現する旋律が空虚であること、素材としての音がゴシックのアーチのように等価に扱われていること。こんなところに、ブルックナーと大友克洋の接点を見出しているのです。表層的な存在などというと難しく感じられるでしょうか…。
 そもそも、人間が内面を有するという考えには、自分という輪郭を設定して(それを自意識とか自己とか言うのでしょうが)その輪郭の外側と内側があって、それらは違うものだという前提が設定されています。その違いを拡大していくと、外側で他人と接している自分は偽の自分で、本当の自分は内側にあるのだという認識に結び付いてしまうものです。他人と関係する自分は偽で、自分自身が認識する自分のみが本当なのだということになる。そうすると、自分の内面というものが何か充実した実体を持っているかのように思われてくるのです。たとえば、誰も自分を理解してくれないというような感情は、そういうところから出て来易い。こういう感情というのは十代の思春期の子供が陥りやすい。最近では、尾崎豊の歌などに端的にうたわれています。(だからと言って、尾崎豊の歌が良いとか悪いとかということではないので、誤解しないでほしいと思います。)私の場合も例外ではありませんでした。しかし、こんなことは社会に出て生活を為すなかで他人と接する自分を受け入れることで意識しなくなっていくものと思います。私の場合は、未だにそういった意識を消すことはできないではいます。ただ、『本当の自分』などというものはどこにもないと思っています。
 自分というか『本当の自分』などというものが、一時期の私にはプレッシャーでしたが、そんなものはとこにもないと思うことで気が楽になったのでした。『本当の自分』というものがあって、いつもそれとの距離を感じて、ズレを意識せざるをえなくなって、そのくせ『本当の自分』が何なのかなどは曖昧で判るわけがないですから。誰も自分のことを誤解している、何もわかっていない等とうそぶいてみても、当の自分だってわかってはいないのです。それで落ち込んでしまう。けれども、『本当の自分』なんてものはなくて、ただ他人や自分の目に映る自分があるだけなのです。それでプレッシャーを払い除けることができたんです。自分では内向的とおもっていても、他人が社交的だと見ているのならそれは事実なわけです。もっと言えば、自分などというものは、非連続的にストロボのように点滅している瞬間瞬間の点の集合のようなもので、それがあたかも連続しているかのように連なって見えているだけなのだ、というように。自分でも自分と思えない行動をすれば、他人(私が自分を見るときにも対象化しているわけですから、当然私も他人に含まれます。)にはそういうものとして見える。それは嘘でも偽でもなく、その限りで事実なだけだ。それならそれでいいではないか。そう思えば、いくらでも自分を変えることができる、何をしてもいいということになります。
 そうしてみると、大友克洋のまんがのクールさ、ミもフタもない視線、乾いた笑い、軽み、それらが、私にとっての大問題だった内面性とかメッセージとかテーマなどというものが転倒して感じられました。内面が反転すれば表面なわけで、同じものであるはずなのにどこか虚ろに見えてしまったのです。謂わば大友克洋のまんがにミもフタもないけれど等身大の自分を見ることができました。“おまえなんて、こんなもんだ。”という具合にです。ブルックナーの音楽もこれに通じるところがあるのです。愛想のなさとか、壮大な音の構築をしながら実は内側は空虚であることとか、素材としての音がどれが主でどれが従ということなく等価であることや、ディテールに固執することとか、その他諸々が敢えて言えば尾崎豊のようなものからの解毒剤の役をはたしてくれたのでした。それが、このような小文を草した動機でもあります。その意味で、ブルックナーの音楽の対して過剰な思い入れや尤もらしい意味付けや神話の靄に包み込んでしまうのを避ける所以です。ミもフタもない音楽です、ミもフタもなく聴こうではありませんか。
 ※偉そうなことを尤もらしく書きましたが、私は未だにふっ切れてはおりません。例えば「みにくいあひるのこ」という童話があります。醜いと言われ続けた子供が実は白鳥の子供だったという話。白鳥は美しい鳥でしょう。だからと言って誰の目にも醜いその子供が白鳥の子だから美しいのだと評価が変わるわけはないのです。しかし、本人にとっては醜いという事実を認めるのは苦しいことです。白鳥の子供という『本当の自分』 は美しいというのは、そんな当人にとって都合のいい逃げ場です。私も逃げ場を放棄するのは辛いことで、どうしても決心がつきかねて逡巡しているのが現状です。

« 私はブルックナーをこう聴いている(13)~ⅩⅣ. 第3楽章(1) | トップページ |  私はブルックナーをこう聴いている(15)~ⅩⅥ.第3楽章(2) »

音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 私はブルックナーをこう聴いている(13)~ⅩⅣ. 第3楽章(1) | トップページ |  私はブルックナーをこう聴いている(15)~ⅩⅥ.第3楽章(2) »