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2017年6月14日 (水)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(4)~3.画家を取り巻く人々

 このコーナーの展示作品は少なく、内容としては肖像画で、他の画家の回顧展であれば、生活の糧のために、画家の絵画的な野心とは別に仕事として職人的に制作したという感じで、つまらない場合が常です。しかし、今回の展示では、この肖像画がもっとも充実していたように思います。私としては、一番見ごたえがありました。だからというわけではないのですが、シャセリオーという画家は近代的な主体をもって絵画的な表現を追求していくといったタイプのひとではなくて、職人的な一般的に、もっというと通俗的に美しいというものを、上品なようすで、しかも、ちょっとしたユニークな意匠を加えてつくるというタイプの人だったのではないかと思えるのです。そういう特徴がよく現われていたのが、ここで展示されていた肖像画です。“師アングルと同様、シャセリオーは、正確なデッサンとモデルの特徴を的確に捉えつつ、その個性を際立たせた素描や油彩の肖像画も残している。”と解説されていますが、まさにその通りではないかと思います。ただし、アングルと違って、シャセリオーは注文を受けることはなく、家族や友人たちを描いた私的なものだったといいます。
Chasseriaucabaryus  「カバリュス嬢の肖像」という作品。この展覧会のポスターで使われた、今回の目玉と言っていい作品です。“ドレスの白からケープの淡いピンク、手にしたパルマ・スミレの薄紫まで色彩のグラデーションが、花で縁取られたモデルの繊細な表情とあいまって、コローの人物像に通じる叙情を醸しだしている。”と説明されています。コローの人物像に通じる叙情とはどういうものか分かりませんが、当時はあまり評判がよくなかったようで、“シャセリオー氏が描いた青白くて痩せぎすの人物像、肩は狭く、胸はくぼみ、緑がかった死体のような肌を持つ「カバリュス嬢の肖像」が、あの活気と健康に輝くような美しい若い娘であることに気がつくと驚愕する。彼女においては全身から生命が躍動し、光り輝いていて、数世代にわたる荘重な美の遺産を実に軽やかに受け継いでいるのだというのに。”とまあ、生き生きとした存在感がないというのが、この評の主旨だと思いますが。それは、人物表現としての絵画として言えることで、日常的に室内の壁に飾り、とくに鑑賞するでもなく、装飾として目に触れるという点では、かなり品質の高いものではないかと思います。多少官能的であっても、ついでに眺めるような場合には、生命感まで見ませんし、それよりも、見てすぐ美しいと分かるほうがいいでしょう。そういう点で、多少きつめの、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちを、しっかり素描して、白やピンクの衣装と花を散りばめて、上品な色遣いで細かく丁寧に描いてある。肖像画を送られたモデルの当人と家族は、この肖像画を気に入って終生手放さなかったということですから、芸術とかいったことではなくて、肖像画としてはきわめて品質の高いものだったと言えると思います。この作品は、1848年のサロンにパリ市中では二月革命の騒擾があって、それとは隔絶されたノスタルジックで静謐な雰囲気に満たされているものになっているわけで、そこに反時代性とまでは行かないまでも、復古的なあるいは平穏とか体制維持あるいは、変革から目をそむけるといった姿勢が底流しているように見えます。家庭といった自分や、その周囲の小さな城をつくって、そこに逃避するといった、同時代にドイツで流行したビーダーマイヤーに近い心情とでもいいたくなるものです。
Chasseriaubel_2  ただ、シャセリオーの描く女性のタイプというのが、肉感的な官能性という方向ではなくて、目鼻立ちのはっきりとしたキツめの顔立ちの女性であることが多く、おそらく、彼の好みのタイプなのではないかと思いますが、「カバリュス嬢の肖像」もそうですし、素描ですが「ベルジョーゾ公女の肖像」でも、そういうタイプの女性を描いています。しかも、細身の痩せた身体つきで、「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」のような、女性というよりも美少女に近いような女性を描いているので、女性の美しさといっても、官能的とか肉感的というよりは、純粋とか繊細とかいったニュアンスが強いため、頽廃的な印象はありません。敢えて言えば、題材の選択で救われている。そういうところで、シャセリオーの絵画というのは、革命によって解放された民衆ではなくて、それを傍観していたり、取り残されていた貴族社会の一部や裕福なブルジョワといった保守的な狭い社会に間での芸術といえるのではないか、と思えるのです。
Chasseriautocqueville_2  「アリクシ・ド・トクヴィル」の肖像です。モデルは有名な政治家、政治思想家で「アメリカのデモクラシー」という彼の著作は政治学を志すものにとっては教科書のようなものです。シャセリオーはトクヴィルと友人だったようで、この肖像もその縁で描いて贈られたもののようです。それゆえ、シャセリオーが必ずしも復古主義ということではないです。シャセリオーは、トクヴィルがそういう人であるということを背景や隠喩を用いて画面の中で表現として入れることせず、モデルの顔の外形を、細かく描写し、まとめることに徹しているように見えます。神話や物語の場面を描いた作品では構図の歪みが、効果を意識した人為的なものとは思えず、気になって趣きを減退させるところがあったのですが、「カバリュス嬢の肖像」もそうですが、肖像画の場合には、構図はおそらく、モデルを忠実なため、あまり気にならなくて、一見写真のようなリアルさを感じさせます。この作品であれば、人物の衣装の黒への光の陰影で身体つきの立体感をあらわすグラデーションや黒が光を反射して生地の高級感を表わしたり、上着と、首周りのスカーフの描き分けなどを見ると、この画家の技量の高さを見せ付けてくれます。私には、シャセリオーという画家の、特徴というのは、ロマン主義とかモローなどの象徴主義の画家の先駆けとなったところといったもの以前に、こういう表現をセンスよく使っていた、この後大衆社会の波に埋没していくことになる上流階級の上品さとかセンスをテクニックとして数量化したような作品を制作したところにあったのではないかと思えるのです。ただし、それは絵画の市場としては成熟市場として発展性の見込みのないところであったので、彼を継承して発展させる人がいなくて、本人の死とともに埋もれてしまう運命にあった、というとセンチメンタルな言い方になってしまいますが。実際に、この作品のような写真と見紛うような肖像画であれば、写真の方がコストパフォーマンスは数段いいわけで、商品としては競争に勝てないものでしかありません。
Chasseriauoacal  「狩りに出発するオスカール・ド・ランシクール伯爵の肖像」と「狩りに出るランシクール伯爵夫人の肖像」という、ひと組セットではないのですが、そう展示してあった肖像画です。上で見てきたように細かく質感まで描きこんではいなくて、近くで見ると筆触がのこる粗さがあります。それが、馬やイヌに顕著に出ていて、この人は動物の描き方が概して下手で、ロマン派の画家ジェリコーのように馬を描くことはできなかったようです。肖像画が上手いというのは、おそらく、シャセリオーという人は、描きたい、一番興味があったのは人だったのではないかと思えます。それ以外の動物とか、小物ののような事物、あるいは風景といったものは、その人物を描く背景程度の熱意しか持てなかった。そんな気がします。また、この場合の人物というのは、その外形で、顔つきとか身体つきといったところに限られ、例えば、顔つきに関して言えば、感情などの内面をあらわす表情には興味がなくて、顔の輪郭、つまり外形としての形です。したがって、歴史画とか風景画とか画面に空間を構成する設計のようなことや、静物画のような物体それぞれの質感、はだざわり、存在感といったものの表現は重視されず、形や色彩といったところに興味の重点が置かれ、画面にもそのような重点の置き方の違いが明確に現われている、といった作品の特徴になっていると思います。そういった意味で、シャセリオーという画家の資質には肖像画がもっとも適していたのではないかと思えるのです。これは、今回の展示で、それぞれのジャンルのシャセリオーの作品を見ていて感じたことです。

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