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2017年6月21日 (水)

私はブルックナーをこう聴いている(10)~ⅩⅠ.ブルックナーと歌舞伎

Bruknerkabuki 抽象的な話が続いてしまって第2楽章の続きを聴きたいところですが、もう少し辛抱して下さるようお願いします。中心となる主な旋律線を欠いたメロディ。などと言われると何のことかと首をかしげる、という方もいらっしゃるかもしれません。例えば第1楽章の“弦の暗い波のような動き”を思い出してみて下さい。Ⅲで申しましたように、この“弦の暗い波のような動き”は、低弦の前のめりの循環とヴァイオリンの前へ前へ…と上昇する分散和音と後へ後へ…と下降する分散和音という複数のものが同時に響いて、そのように聞こえてくるものなのです。もともと、“弦の暗い波のような動き”そのものがあってそれを装飾するように低弦の循環やヴァイオリンの分散和音があるのではありません。

このようなブルックナーの旋律の特徴について、突飛ではありますが大正時代の歌舞伎の名優二代目市川段四郎のエピソードを思い出すのです。段四郎は、あるとき一座を組んで「忠臣蔵」をもって旅興業に出たときのことです。一座の中に明治の名優九代目市川団十郎の女婿市川三升がいて、五段目の定九郎をつとめていました。ところがどういうわけかこの定九郎が客にちっとも受けない。市川三升は九代目の女婿とはいえ一介の勤め人から急に役者になった人で、あまりうまい人ではなかったそうです。定九郎が客に受けないのも当然のことかもしれません。しかし定九郎は「忠臣蔵」の中のもうけ役です。心配した段四郎が五段目を見て、よし、明日はおれが与市兵衛をやろうと言いだした。そして、本当にその翌日、昨日までの大部屋の何某のやっていた与市兵衛を段四郎自身がかわってやることになったのでした。その翌日、いつものように正面の掛稲から定九郎が与市兵衛を刺して出てくる。そこまでは昨日とかわりません。定九郎が刀をつき刺した与市兵衛の体に足をかけて刀を抜きとると、ポンと左足をふみ出して見得をする。刀を抜かれた与市兵衛は、上手の藪畳のところまでいって倒れて死ぬというのが、その舞台です。ところが昨日までは何の反応もしなかった客席が、定九郎が見得をしたとたんに大受けに受けたということです。

そうすると昨日までとその日とは、いったい何が変わったのでしょうか。段四郎がかわって演じたのは与市兵衛です。昨日までの何某の与市兵衛は、定九郎が刀を抜くとすぐに倒れてしまったそうです。サッサと倒れて、サッサと楽屋へ引っ込んでしまいました。ところが段四郎の与市兵衛は、刀を抜かれただけでは倒れなかった。トントンと藪畳の際まで下ってきて、ジッともちこたえていて、定九郎が見得をしたとたんに倒れたのだそうです。それでその日は、定九郎の見得が受けたのだそうです。

この時、客は定九郎を見ていると思いながら実は定九郎と与市兵衛の関係を見ていたと考えられます。定九郎は昨日とたいして変わらなかった。もし客が定九郎だけを見ていたならば、昨日とまったく違う反応をするはずがありません。しかし与市兵衛は昨日までとは大きく変わりました。もし客が与市兵衛だけを見ていたのなら、昨日とまったく違う反応をするはずで、事実そうなりました。そこで問題なのは、それにもかかわらず客は与市兵衛に対してではなく、定九郎に対して反応を示したということです。客は定九郎だけを見ていると意識していたのかもしれませんが、実は定九郎と与市兵衛の関係あるいは与市兵衛との関係における定九郎を見ていたのです。

ここで、三升と段四郎のつくった定九郎と与市兵衛の関係について考えてみましょう。ただ単に二人が舞台の上にいるだけでは物体と同じで、観客を錯覚に陥らせるような関係をつくることはできません。また、観客の側からにしても、定九郎と与市兵衛の関係を見ていたといっても、そのどこにポイントがあるのか明確でなければ視線をそこに集中することは難しいはずです。劇評家の渡辺保は『女形の運命』で、このポイントを定九郎が見得をしたとき二人が背中合わせになる点から解き起こします。リアリズムから考えれば殺人者と被害者が背中合わせになることなどありえないことです。リアリズムとは違う歌舞伎の特徴がここにあると渡辺は言います。舞台上の二人は、単に客席に向いたり、相手役の方をむいているのではないのです。だから、定九郎と与市兵衛の関係は二人を結ぶ単純な直線ではないし、ポイントもその直線上にあるのではない。

実は、関係のポイントは、左足を踏み出した定九郎の右足を基点として、左足との間に結ばれる直線の延長線と、やはり定九郎とは逆の姿勢で左足を踏み出している与市兵衛の右足を基点として、左足との間に結ばれる直線の延長線という2本の直線の交点にあったのです。この点を頂点として二人の右足を二つの角とすると、ここには三角形ができるのです。定九郎も与市兵衛も、単純に客席に対しているのでも、相手役に対しているのでもなく、この三角形の頂点に対していたのです。二人が平気で客席や相手に背中を見せたのは、この三角形の頂点に忠実であったためなのです。この三角形の頂点が関係のポイントであり、観客の視線の集中点だったのです。昨日まのでの大部屋の何某の与市兵衛は、定九郎が見得をしたとき、もうそこにはいなかった。一点が失われてしまった以上、舞台上に三角形は現われるはずもない。段四郎の与市兵衛は、その三角形を舞台上につくってみせたわけです。そして、この頂点には何もありませんし、通常この頂点に肉体をさらすことのできる役者は僅かの例外を除いていません。

渡辺によれば、この三角形は歌舞伎芝居の構成の基本的なもので、どの芝居にもあるのです。「三番叟」で翁になった座頭は、この頂点である舞台正面へ来て平伏します。この礼は観客席の屋根の上にある櫓に対して行なわれる礼で、この櫓は興業許可の表示であると同時に神の降臨する場所を示すものです。ですから、この礼は謂わば降臨する神への拝礼であり、神がもしこの拝礼に応えるとするならば、その神の眼差しが舞台に降りる場所が即ち三角形の頂点ということになります(折口信夫は、芸能の発生を神を家に招くまつりに求めます。折口によれば、平安鎌倉時代に招くために庭にしつらえた客殿が舞台のもとになるそうです。その舞台には、神を招く主人と招かれた神のみがいるわけで、そこでの舞は主人が神を供応するためのものだったわけです。ここでの神は横座の神といい、座の真ん中に位置するのでした。(折口信夫「日本芸能史六講」 講談社学術文庫))。つまり、歌舞伎の舞台を成り立たせている中心が実は何の実体も持たない空虚な点であり、しかしそれだからこそ、その点こそが神とつながる点でもあるのです。そしてまた、歌舞伎はこのような中心の点が空虚であるということで、実体をもつ個人が中心として存在する近代演劇とは一線を画するのです。個人を前面に押し出すモノフォニックな近代演劇(ロマン派の音楽が単一の音の列であるメロディ第一であるのと関連していると思います)に対して、歌舞伎は単に個人を表現するのではなく劇的な世界全体を様々な角度から表現することからポリフォニックなのだと言うことができます(渡辺保「女形の運命」筑摩書房 P.12~18)。

さて、ここで再びブルックナーの旋律に戻りましょう。上述の定九郎と与市兵衛という二人の役者は、ブルックナーの旋律を織りあげる部分の旋律に例えられないでしょうか。この章の最初で述べた例に戻るならば、低弦の前のめりの循環やヴァイオリンの前へ前へ…と上昇する分散和音や後へ後へ…と下降する分散和音がこれに当たるわけです。そしてこれらの関係のポイントとして空虚な点として、聴いている私の耳が焦点をあてるようにするのが“弦の暗い波のような動き”であるわけです。空虚というのは、前章で申しましたように単独での“弦の暗い波のような動き”が、実体としての響きを持っていないことです。ですから、このようなブルックナーの旋律は近代的な個人を中心とするものではなくて、もう少し前の時代のポリフォニックな感じにちかいものであると言うことができます。歌舞伎での中心の点は、空虚な空間であるがゆえに神に通じる場所になりえました。また、ゴシックの大聖堂に足を踏み入れれば、遥かに高い天井の下にひろがる巨大な空虚空間に驚かされ、たじろぐことでしょう。この空間には具体的な物質は何もありません。そこに人が見出すのは、実体を持たないものの溢れんばかりに降り注ぐ光。光とは、まさに神の光です。ゴシックの大聖堂の内部は巨大な空虚であるからこそ、神の光で充たされることができる空間であるのです。この空虚は<聖なる空虚>(パウル・ティリッヒ「文化の詩学」(谷口美知雄訳) 『ティリッヒ著作集』第7巻 白水社)なのです。そして、ゴシック建築全体の階層構造が、この<聖なる空虚>へ人を導くものです。バシリカという大聖堂の様式は通路を意味しています。大聖堂は<聖なる空虚>へと向かう通路と言うことができるのです。さて、ブルックナーの旋律が中心を欠いた空虚な構造であることの意味を、私がどう捉えているのか、ことでお判りいただけたことと思います。ブルックナーの音楽が、神というものに連なっているとすれば、私には、このような点以外には考えられません。ブルックナーの旋律の空虚さは、ゴシックの大聖堂と同様に階層構造と深くかかわっていると考えられます。しかし、私としてはブルックナーの旋律の空虚さは神に通じているとは思っていません。(それについては後で詳しくお話し致します。)さて、ブルックナーの交響曲第3番を聴きすすめていくと、さらに驚くことになります。これについては、この長い寄り道を終わり、ようやく続きに戻ることで明らかになることでしょう。 

※歌舞伎よりも古い芸能に能があります。能にはシテとワキ、主人公であるシテと、それを見ているワキと呼ばれる役があります。普通、能ではこのワキが最初に出てきて、それからシテが出てきて少し問答があって、あとはワキはただもうジッとシテのすることを見ているだけのようにしていることが多いです。これについて「彼(ワキ)は私たち見物人に代表として(舞台に)出ているのである。(野上豊一郎「能 研究と発見」 岩波書店)」として見物人の代表という考えがありますが、はたしてそうでしょうか。木下順二によれば、シテは多くの場合ずっと昔のことを現在形で語ります。それは、何百年という時間を一瞬に凝縮したような不思議な形で情念を語ることです。そのことは見所(客席)にいる我々にとっては直接にリアルなことではありません。ところがそこで見ているワキにとっては、それはまさにリアルなのです。そう思っているワキと、それからシテとを見所にいる我々はひっくるめて見ているということになります。つまり、いま舞台で行なわれていること、シテの舞、それは見所にいる我々にはいかにも非現実的なことなのだけれど、しかしその非現実を、非常に純粋に凝縮された一つの情念というものをリアルだと思って見ているワキ、彼をも見所の我々は見ているわけです。そこで初めて、シテのやっていることが一種不思議な真実として見所の我々を搏ってくるのです(木下順二 「劇的とは」 岩波新書)。このようなワキとそれを見ている観客の構造は、歌舞伎の場合に酷似しています。さらに渡辺保によれば、一人の能役者であるシテが舞いながら、いま自分の役のせりふを謡っていたと思うと次には自分を第三者として語り、忽ち状況全体の語り手となり、そのいずれにも没入してしまって自己を喪うということがない(渡辺保 前掲書)。これは、まさに歌舞伎とブルックナーに共通する構造ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 註 *1 野上豊一郎「能 研究と発見」 岩波書店

   *2 木下順二 「劇的とは」 岩波新書

   *3 渡辺 保 前掲書

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