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2017年6月 5日 (月)

私はブルックナーをこう聴いている(5)~Ⅴ.第1楽章(1)

 昨日の寄り道で、ブルックナーの音楽は階層構造をしていて、それが中世のゴシック建築の感じに通じるところがあるということを述べました。しかしまた、階層構造と言っただけでは収まりきらないということも併せて述べました。それはそれぞれの階層が流動的だからです。前々章の所謂「暗い波のような動き」は複数の分散和音であると同時に、通奏低音でもあり、金管楽器の動機を導く動機でもあったりするわけです。だから、ブックナーの音楽は、同時に共存しあう複数の音楽エレメント(例えば“暗い波のような動き”をつくりだす分散和音)がその都度織りあげては解きほぐしてゆく謂わば階層状の有機的組織と言うことができます。9曲の交響曲の各々に明確な個性があるとは言えず、ワンパターンを繰り返しているかのように見える交響曲という形式、或いはアダージォだのスケルツォだのといったものは、この階層状の組織にさまざまな刺戟を与える契機にすぎないと言ってもいいと思います。(私は契機と言いましたが、ブックナー自身がそうした口実として交響曲を考えていたなどと主張したいわけではありません。たぶん、作曲家ブルックナーは、そんなことは考えてもいなかったでしょうから。)ブルックナーの交響曲がワンパターンのように繰り返されるのは、「暗い波のような動き」をつくりだす分散和音をはじめとする複数の音楽エレメントの共鳴作用を導きだすためにはなくてはならない要素です。ただ、これらの複数の音楽エレメントの中に特権的に主題だの主旋律だのというような特権的エレメントがひそんでいて、その進展を有効に支えるべく他のエレメントが利用されるといった関係はここでは聞こえてきません。あらゆるエレメントが、ゴシック建築のアーチをつくる石のように同じ資格で作品に加担しているのと言っていいです。その関係は、あくまでも同時的な共存なのです。問題は、交響曲とかアダージォとかスケルツォとかいったものが、ブルックナーの作品のみならず、ブラームスでもベートーヴェンでも、クラシック音楽を愛好する者なら誰でも納得しうるものであるのに対して、所謂“暗い波のような動き”は、あくまでもブルックナーの作品の内部でのみ聴くものを納得させるものなのであって、その意味で、こうしたブルックナーの作品の特質と言いうるものを鮮明に示すと言うことができるのです。
 ところで、一昨日は所謂ブルックナー開始の部分でしたので、逐音的に追い掛けてみました。しかし全編にわたってこれを行なうのは、私の耳では不可能です。それで、これ以降は適当にピックアップして聴いていきたいと思います。作品冒頭の分散和音の“暗い波のような動き”に乗って、トランペットが第1音を長く伸ばした高所から降りてくるような動機を開始のファンファーレのように始める。それをフルートが橋渡しして、ホルンがそれに下から応答するように第1音を伸ばし気味に仰角的な(上昇気味の旋律)動機で続きます。この後、最初のクライマックスとなります[0:00~1:00 CDにカウントされている演奏時間、ここでは開始が0:00なので、開始かに1分のでということ、以下、この凡例にしたがって時間を目安として注記していきます]。このクライマックスにおいてオーケストラのユニゾン(?)でffの第1音を長く伸ばした後下降する動機が、さらに一拍おいて弦による弱音の動きの少ない動機が演奏されます。この動機は前半と後半で正に動と静のような対比できくことができて、動である前の動機は冒頭のトランペットの動機のリズムを切り詰めて音程の上下を強調させたように動きを凝縮させ、静である後半の動機はホルンの動機の音程の上下の動きを抑えて旋律が静かに横に流れるようにしているようにきこえます。また、前半と後半のそれぞれの末尾で韻を踏んでいるかのように細かい上下の動きをすることで動機全体の統一感を強めており、つまり、トランペットとホルンの動機を融合させて成長させたもののように聞こえるわけです。このユニゾンの動機はもう一度繰り返されたあと、ホルンの短い橋渡しから、オーボエが短くユニゾンの動機後半の静の部分を演奏し終わりの下降音階を繰り返すと、今度は弦が強く同じことを弾き、金管の刻みが加わって下降音階の小さなクライマックスに達します。[1:00~2:35]ある解説書は、このユニゾンの動機を交響曲の第1主題としています(「作曲家別名曲解説ライブラリー5 ブルックナー」音楽之友社 P.57 23行)。また、別のある解説では、冒頭のトランペットの動機を第1主題としています(「ブルックー/マーラー辞典」東京書籍)。このように解説書によって第1主題の受け取り方が全く違うのが、ブルックナーの主題の特徴ではないかと思います。この場合、どれが第1主題かと問うのは無意味としか思えません。どれが第1主題かなどというのは、どうでもいいことなのです。それよりも、この先、曲が進行していくと尚更明らかになりますが、例えばトランペットの動機とホルンの動機がそのまま現われる時と、それらが融合してユニゾンの動機として現われる時とが、同一でもなく全くの別物でもないというような、通底しあい、葛藤を内包しながらも豊かな調和を生きることで、音楽全体の階層状の組織に微妙な震動を波及させるとき、ブルックナーの音楽は生き生きとした生彩を帯びるのです。最初のトランペットの動機がきこえてくると、これが第1楽章全編にわたって執拗に繰り返される単調さに、私はああまたかと些かげんなりとしながらも、またその一方で、ホルンの動機や弦楽器の分散和音などのような関わりを持つものが、どのようにしてこれと絡んでくるのか、その時を見守ることになるのです。つまり、交響曲のソナタ形式のプログラムが、私にはトランペットの動機が他と絡んで変わったりする全体の流れとして現われてくるわけです。この場合、聴く私が一見、単にソナタ形式のパターンでしかないかに感じられる音楽の動きの背後に、トランペットの動機と他との戯れが煽りたてるサスペンスを張りめぐらさずにはいられないのです。この戯れが、交響曲的な主題とその展開という面でのブルックナーの音楽は単調に聞こえてしまうにもかかわらず、豊かな拡がりと複雑さを与えているのです。
一旦総休止した後、冒頭の繰り返しが長調に転調して低く短く再登場します。トランペットの動機がこれに続きますが、今度はホルンの動機に続かないで、トランペットの動機をトランペットとフルートが交互に吹きます。そして、両者の受け渡しの感覚が次第に短くなり他の金管楽器も加わりクライマックスに達すると、ユニゾンの動機が前より低い音程で演奏されます。ホルンとフルートが後半部分の末尾を短く吹いてつなぐと、弦楽部によってこの末尾の音形を長調に転調させて、弦楽四部で掛け合いをするように演奏されます。[2:30~4:30]末尾の音形は4音による下降ですが、これをヴァイオリンが問い掛けるように演奏すると、これに応えるようにヴィオラなどの内声部の音が浮き上がってくるのが、ひとつの聴きどころかもしれません。ブラームスなどは内声部の音が分厚くて、それが全体の響きの基調となってオーケストラの各声部の間の接着剤の役目をしています。そのため全体の響きが内声部を中心に重く分厚くなっているのです。ブルックナーの場合では、むしろ内声部が独立して動くことが多く、全体の響きにはブラームスのような渋さや重さは感じられず、寧ろブラームスにはない明快さや響きの薄さが感じられます。それがこの部分ではよく現われていると思います。ヴォルフが“同時に生み出され、互いに欠くことができない二つのメロディ線があらわれる。両者は互いに引き立て合う(ヴェルナー・ヴォルフ「ブルックナー 聖なる野人」喜多尾道冬・仲間雄三訳 音楽之友社 P.163 11行)。”と書いているのは、このような箇所のことでしょうか。個々のパートのメロディがそれぞれヴォルフの言うように“欠くことができない”存在で、それらが互いに共存してひとつの場をつくりあげている。ここに、音楽の豊かなふくらみが生じてくるのは、これまでに何度も述べてきたことです。しかも、ここではメロディの流れがどれも上下の動きよりも横に流れる動きが豊かで、全体に競ってメロディの線が伸びていく感じがします。その意味でユニゾンの動機の後半部が遥かに反映していると思ってよいのではないでしょうか。さて、弦楽四部の掛け合いにはホルンなどの管楽器が加わり何度か繰り返されます。4つの音を介しての下降によるヴァイオリンの問い掛けを重ねていくうちに全体の音量が大きくなり小さなクライマックスをつくります。[4:30~5:45] 突然弱音となり、また強くなってコントラストを見せると、小さなクライマックスでこれまでとは全く異質な動機が始まります。ffで弦楽部と金管楽器によって2音単位の幅の少ない下降の音の動きが提示され、それに対位法的に絡むように弦楽部が副旋律を形成します。これが多分2小節程度の長さで、その後突然ppとなって上昇の音の動きを示して、前と強い対照を印象付けられます。動機自身の中に対立を内包しているのです。これを繰り返して、トランペットが派生するように弱く音を細かく上昇させ問い掛けをすると残りの声部が強く音を伸ばし気味に下降の動きで応えます。[5:45~7:00] この一連の動きを繰り返して一度盛り上がり頂点で冒頭のトランペットの動機から派生したような音形が現われると、弱音となりこの音形を各声部で受け渡しながら消え入るように弱くなっていきます。[7:00~9:00] さて、上述の異質な動機は、強い対照(コントラスト)を内包しています。ff/pp、下降の音の動き/上昇の音の動き、長い音/細かい音。以上のような対照が掛け合いをするのです。さらに述べたようなブルックナーのオーケストレイションはブラームスのような内声部が接着剤となって各声部の響きを求心的にまとめあげることがなく各声部の独立性が顕になるために全体としての響きは薄っぺらになってしまうため、このようなコントラストがなお一層強調されて聞こえてきます。これが階層状の組織としてのブルックナーの音楽にアクセントを与えるのです。様々な細部が積み上がって複雑な階層状をなしていると聞いて、スタティックな印象を持たれたことと思います。これにアクセントを与えダイナミックにしているのが、ここでの強い対照ということができます。私が異質と述べたのは、そういうわけです。そして、このような異質な要素が入りこむことで、交響曲の主題的な統一性は不均衡となってしまいますが、反面ブルックナーの音楽に生き生きとした動きを与えているのです。それがまた、ブルックナーの音楽の包容力の豊かさを示しているとも言えると思います。

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