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2017年6月 8日 (木)

私はブルックナーをこう聴いている(7)~Ⅶ.第1楽章(2)

 当初この文章を書き始めた時には第1楽章について、このように開始部と(1)、(2)というように分けるつもりはありませんでした。予定に反して長くなっていますが、お付き合い下さい。前章の寄り道では、ブルックナーの音楽にあるコントラストが強い緊張感を生み出す点でフリードリッヒの風景画の世界と共通するものを持っていることを述べました。しかし、フリードリッヒにはなくて、ブルックナーだけが持っているものがある。それが長いブルックナーの交響曲を聴き通すうえで、それがないと困るもの、それについて考えながら第1楽章の続きを聴いていくことにします。
 弱音で「暗い波の動き」の分散和音が現われます。木管楽器が絡みます。トランペットの動機は木管楽器で微かに奏され、続いてユニゾン動機が弦楽器のピチカートに乗って木管楽器で断片が提示されます。弱音で各声部がそれぞれ囁き合うように弦楽器の刻むピチカートのリズムにのって即興的にユニゾン動機の断片を掛け合いします。[9:00~11:20]ここで、おもしろいことに動機が断片に分解されても元の動機の旋律のかたちが変容するということはなくて、ベートーヴェンの交響曲の主題の展開のように主題が分解されて変容していくということは、ブルックナーの交響曲では見られません。動機は、対位法的な装飾が加わったり転調したりしても、あくまでもかたちは元のままであって、これはシューベルトの幻想曲風の展開を彷彿とさせるように思います。ですからここでは、交響曲としての主題の展開を論理的に追い掛けるというような、物語を読むような聴き方は必要ないわけです。その時々の即興的な感興に身を任せる心地よさとでも言ったらよいでしょうか。私の友人は、この楽しみを列車で旅行していて、車窓の次々に現われては消える景色を何気なく眺めている楽しさだと言います。色々な景色を楽しんでいるうちに列車は目的地に着いてしまうのです。ベートーヴェンの交響曲は目的地を立てて、きちんとした計画に従って旅行をするツーリストならば、ブルックナーの場合は時に道に迷いあちこち寄り道をしながら旅をするワンダラーと言うことができます(テオドール・W・アドルノ「楽興の時」三光長治訳 白水社  この中で、シューベルトの音楽を「さすらい人的性格」と評しているところから借用しました。)。ベートーヴェンの交響曲のような主題の展開がなく、主題(ここで、これまで遣わなかった主題という語を持ち出しましたが、これはあくまでもベートーヴェンの交響曲と対比するためだけに便宜的に用いただけのことです。だから、ここ以外ではこれまで通り動機という語を用います。)─しかも主題そのものがはっきりとせずに単独で明確な主題ではなく、いくつかのそれらしいものが集まって主題の群れを形成している。─が色々と手をかえ品をかえ出てくるのです。つまり、主題があちこちと彷徨(ワンダリング)しても一歩も前へは進まず、その場で堂々巡りをしているわけです。このような一種の循環性はブルックナーの交響曲全体の構造にも言えることです。最終楽章では、以前の楽章の主題が回顧的に再現されます。そして、最後はまるで開始部分に戻るかのように開始の動機で終わることが多い。ですから、ブルックナーの交響曲の展開が即興的とは言っても、セロニアス・モンクやチャーリー・パーカーなどのジャズやホロヴィッツやポゴレリッチの演奏するショパンのピアノ曲のように先がどうなるか予想がつかないような厳しい緊張があるわけではありません。先は既に定まっていてその経路の選択に幅があるという程度のものです。だからこそ、その瞬間毎に安心して身を任せることができるものなのです。
 ここで、このジャズやショパンの即興性とブルックナーのそれとでは、どこがどう異なるのかというのは中々説明しにくいものがあります。それは多分、新たに出現するフレーズを聴き取る際の時間意識の違いによる違いだと思います。ジャズやショパンの場合は、意識の時間が演奏の時間に一致するという状態にあるため、聴く者に常に新鮮な印象を与えると同時にその音を聴き逃さないように緊張を強いるものです。時間意識などという小難しげな言葉を遣ってしまいましたが、難しく考える必要はありません。その意味するところは、日常生活の中で日頃経験していてよくご存知のはずのことなのですから。例えば、友人の結婚式に招待されたとしましょう。披露宴で決まってある来賓の祝辞。つまらないですね。どうしてなのでしょうか。あれは、決まり切ったパターンに則って前日にでも下書きをしたであろう原稿をなんとか暗記して、とにかく失敗しないように型通りにやろうとするからではないでしょうか。こういう時の来賓の意識は、現実のスピーチしている時間とは一致していません。口では現在喋りながらも、意識の方は原稿の要点は全部言っただろうか、新郎の出身校を言い間違えないだろうかとあらぬところへ行ってしまっているのです。ところが一方、急に予定外に指名され準備もままならぬ風情の学生時代の悪友のような人が、始めのうちこそボソボソと無内容なことを呟きながらも、突然話が興に乗って、それを聞く人も思わず食事の手を止めて話に聞き入ってしまうことが時々あります。こういう時の悪友の意識の時間は、まさしく話をしているいま現在の時間とピタリ一致していると言うことができます。そしてそれを聞く出席者たちも、本当にこの話はいまこの場で初めて語られるのだという生々しい同時的体験を実感することができる。つまり、ジャズやショパンの即興性というのは、この悪友の祝辞のように、音楽家の演奏の時間と聴く者の経験の時間が一致して、現在起こりつつある新しい出来事を共有しうると感じられる面白さがあるのです。これに対してブルックナーの場合はどうなるのか考えてみましょう。彼は生来生真面目な性なので、友人の結婚式祝辞には十分すぎるほどの準備をして臨みました。彼は本当に生真面目なので、原稿を丸暗記、棒読みするようないいかげんなことはしません。キチンとその時の自分の衷心の言葉で話をしようとします。しかし、真面目すぎる彼には、自分がいま喋ったことが不十分であるという感じが常につきまとうのです。「新郎は○○大学を優秀な成績で卒業し…」と言えば、なにかいまの言い方は型通りのお世辞と受け取られそうだと、すぐに「本当の話で、その証拠に4年間でAを30個も取って…」と言い足しかと思うと、今度はこれでは成績がいいだけのガリ勉だと言っているだと思い直し、「成績ばかりでなくスポーツも万能で、とりわけテニスなどは…」などと言い出し始めて、とうてい時間内に祝辞は終わりそうになく、司会者に袖を引っ張られてむりやり席に戻されたりしてしまう。彼の時間意識は、いつも自分が喋ってしまったこと、すでに現わしてしまったフレーズ、つまり過去の方向に向いています(後藤雅洋「ジャズ・オブ・パラダイス」講談社 P.106より なお、時間意識については、滝浦静雄「時間」岩波新書 を参考としました。)。だからどうしても意識が現実の演奏の後を追ってしまうもどかしさを背負っているのです。そこがブルックナーの音楽の展開が、どこか言いたいことを言い切っていない、何か言い足りないような感じを受ける、同じことを何回もくどくどと繰り返す、そのためどんどん演奏時間が長くなってしまうという印象につながるのでしょうか。ですから、ブルックナーの音楽の展開の即興性というのは、一音でも聴き逃すまいといった脅迫されるような緊張は伴わないで済むのです。このように、たしかにブルックナーの音楽には強い緊張がありますが、その反面、とてもリラックスしても聴けるのです。それがないと、全部で約1時間あるこの曲を聴き通すことはできません。
 ユニゾンの動機の掛け合いの間が短くなってくるにつれて、音量も徐々に大きくなってきて、クライマックスはユニゾンの動機をオーケストラが強奏します。[11:00~12:40]
 これまでのクライマックスのいき方とは、ここのはちょっと違っていて、その点からもここが第1楽章の山場のクライマックスのひとつを形成しています。その違いとは何か、ブルックナーのクライマックスの部分を、どこでもいいから聴いてみて下さい。だいたい、ブルックナーのメロディ―複数のメロディの融合という構造的な特徴をもつ―を、元の複数のメロディの部分に分解して、それぞれを弦楽器群と金管楽器のみ(あるいは木管楽器をも含めて)の群が掛け合いをしていくうちに、掛け合いの幅を狭めていって双方の間の夾雑物を捨て去り対立感を高めていきます。掛け合いの幅が狭まるということは音楽全体の速度が増すということでもあり、それにつれて音量も増していくことになるわけです。つまり、対立感の高まりを全体の速度と音量の増量が煽って緊張を高めていき、その行き着くところがクライマックスということになるわけです。そして頂点に達するやメロディを分解されて掛け合いをしていた各楽器群が、一群となってユニゾンでメロディを高らかに奏することになるわけです。“音楽のクライマックスが緊張の絶頂であると同時に、大きな、底知れないほどの深い解決のやすらぎでもあるということ。(吉田秀和「私の好きな曲」新潮文庫 P.158)”と吉田秀和が書いているのは、このようなことを指すのではないかと思います。つまり、メロディを分割して掛け合いをするように対立していたものが、その対立による緊張の頂点で対立を止揚したようなユニゾンの演奏をするということです。しかし、私が注目するのはそのことではありません。緊張感を高めてクライマックスに至るプロセスはいいとして、その絶頂の瞬間にフッと息を抜くようにほんの少し音量を弱めて、緊張を解くのです。私が、ブルックナーの演奏を聴く場合、指揮者の好き嫌いを分けるのは、この抜き方によるところが大きいと思います。この絶頂での抜きによって、ユニゾンで奏されるメロディは推進力を持って流れるのです。ブルックナーの交響曲の中でメロディが最もうたう処のひとつがこのような処です。この一点を以て、ブルックナーの交響曲はヴァーグナーの管弦楽曲とは決定的に袂を分かつのです。(ちなみに、私にはブルックナーとヴァーグナーを近しい音楽とする理由が理解できません。何度聴いても、私には両者は全く別の音楽です。)さて、ここでのクライマックスはその抜きがなく、ユニゾンの動機を繰り返す時、二枚腰(というよりも火事場の糞力)のようにもう一段高い緊張でメロディをうたいます。ここは、全体の演奏を設計してここを中心に演奏を組み立てるような構築的な演奏では火事場の糞力の雰囲気が出ないし、かと言って刹那的に爆発するような演奏ではここだけの特別な感じが出ないというわけで、ここでの演奏には何かしら意識しながらも憑かれたような冷静な荒々しさが欲しくなります。
 ユニゾンの動機をオーケストラが強奏し繰り返すと、突然弱音のフルートがホルンを吹きつないで、オーケストラの強奏と弱音のフルートの対比があって、その後弦楽部によってユニゾンの動機の後半部をかたちを変えながら対位法的に掛け合いをしながら演奏していきます。[13:00~14:25]
 “暗い波のような動き”をする分散和音から、冒頭に戻ったような演奏が始まります。所謂再現部の開始らしいです。この分散和音は、これまで聴いてきたように曲の開始、展開部の開始、再現部の開始、そしてコーダの開始とこの曲の節目になっているようです。極端なことを言えば、この作品は分散和音に導かれるようにつくられているのかもしれません。[14:30~19:40]
 例によって分散和音から開始するとトランペットの動機とフルートによるホルンの動機が弱音で対比して、最後のクライマックスになってユニゾンの動機を強奏して漸く第1楽章が終わります。[19:40~21:20]この記述では、まだまだ楽器の重ね方の面白さとか、即興的な揺れ動きの興味など細部の魅力がたくさんあるのですが、これは聴く時の感興で楽しんでいるので文章にしようとすると、どうしても洩れてしまいます。できる限り細部の例外的な動きを肯定しながら、ブルックナーの音楽の豊かさを記述したいと思っているのですが、中々うまくいきません。それだけ、私にとって音楽を聴くということは即興的な性格が強いのかもしれません。

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