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2017年6月20日 (火)

私はブルックナーをこう聴いている(9)~Ⅹ.ブルックナーとロマンティシズム

 予定に反して、第1楽章に続いて第2楽章についての記述も長くなってしまいました。第2楽章については途中でひとまず中休みを入れることにしましょう。前々章で、私なりにロマンティシズムについてお喋りを致しましたが、それではブルックナーと関連づけて考えることはできるのかという疑問が残ったことと思います。ブルックナーには「ロマンティック」のニックネームがついた交響曲もあることですし、それで、ここではそのことについてお喋りさせて下さい。
 ロマン主義は人間の感情というものを重要視しました。しかも、その感情とは個々の嬉しいとか悲しいといった日常生活での具体的感情ではなく、日常生活を超越した純粋な美的感情というものです。音楽の動きは、この感情の動きに重なってくるのです。そして、とりわけ旋律という要素が、実際に感情と結びつく役割を担っている、というのが前々章で述べたロマンティシズムの要旨です。ということは、ブルックナーのロマンティシズムについて考えようとする場合、具体的にはブルックナーの音楽の旋律について考えてみればよいことになるわけです。ブルックナーの旋律についての私の印象は前章で触れましたので、ここでは簡単にしておきます。まず、フレーズが短いこと。シューベルトのようなはっきりとしたメロディのかたちを明示することはなくて、メロディそのものに伸びようとする力が感じられないこと。そして、単数ではなくて、色々な声部で分担された複数の短いメロディが撚り集まった結果として一つのメロディとして聴くことも可能であるということ。これらが主な特徴です。しかし、これではブルックナーのメロディが実際に感情と結びつくのか、ということには疑問を呈せざるをえません。
 さてここで唐突かもしれませんが、シューマンのピアノ曲を持ち出すことにします。私は、シューマンのピアノ曲の中にブルックナーのメロディと似たような特徴を見出だしながらも、尚且つ感情の動きとどうしても結びつけて聴いてしまうところがあるのです。
 私は全く楽譜を解さないので著作からの孫引きになってしまうのですが、例えばシューマンのピアノ曲<フモレスケ>の中に楽譜には音符が書かれているだけれど、実際には演奏されない部分があるのだそうです(ミシェル・シュネーデル「シューマン 黄昏のアリア」千葉文夫訳 筑摩書房 P.113)。これが内部の声といわれる箇所です。ここで書かれた音符は、ピアニストの左手と右手で鳴らされるピアノの音の交錯を通じて、漠然と聴き手の耳に流れてくるのです。私の友人でピアノを弾く者が言うには、シューマンのピアノ曲は他の作曲家のように右手がテナーとなって主旋律を弾いて左手が伴奏を勤めるのではなく、右手と左手の音が交錯して旋律が現われてくるので初見では弾きにくいのだそうです。このようにシューマンのメロディは確かで明確な存在として弾かれるではありません。右手で弾かれる音と左手で弾かれる音の中間で漂っているのです。ベートーヴェンでもシューベルトでも、主旋律ははっきりしています。二分音符の長さを持つものならば、楽譜上に二分音符で記されるでしょう。しかし、シューマンは、左手の八分音符と右手の十六分音符の交錯のうちに、二分音符と四分音符からなるうたをうたってしまうのです。このような、在るか在らぬかがはっきりせず、辺りを漂っているように曖昧に耳で感じるというのがシユーマンのメロディの特徴です。これは前々章で考えた気分の在り方と酷似していると思いませんか。左手と右手の交錯の具合によっては、中間を漂うメロディも全く変容してしまいます。聴くたびに微妙な変化を常に伴うのは、うつろい易い気分というものと相通じるのではないでしょうか。私がシューマンのピアノ曲に対して、感情の動きを結び付けずにはいられないのはこのような理由です。まさに前頁で述べたロマン主義の特徴そのものではないですか。
ところで、シューマンとブルックナーのメロディは、はっきりとしていないこと、単独ではなくて複数の声部の動きの結果として聞こえてくること、など共通するところが大きいと思います。もし、かりにブルックナーにロマンティシズムを感じるとしたら、このようなシューマンとの共通点を経由してでしょうか。
 しかし、ブルックナーとシューマンとは違います。シューマンのメロディははっきりとしていないながらも、上述のように演奏されない音符として楽譜に書かれています。ここでは、実際に響く音と、内部の声という楽譜に記された姿との食い違いが明確に意識され、そこに高度の効果が意図的に託されていると言ってもいいと思います。つまり、気分のような漂うメロディは意識的に作為されたものと考えられます。ここでの実際に演奏される音は、内部の声のための謂わば影であって、音そのものが自立していないのです。ですから、右手と左手というピアノの各声部の音色には同質性が求められるわけです。シューマンにとっての音楽とは、ショパンのそれのようなピアノの音が客観的に存在していて、それを積み重ねて音楽が構築されるという音の伽藍ではないのです。それよりも、ある種の感情とか気分とかいうものがあって、その意識の影としてピアノの音に託される、そういうものとして音楽があると考えられます。シューマンのピアノ曲のメロディの構造は、このようなシューマンの音楽の特徴に見合ったものだと思います。以前にゴシック建築の主観性のことを申しましたが、建築の素材の石の具体的な物質性が稀薄になっていくのがゴシック建築の主観性だとすれば、ピアノ曲のピアノの音の現実性が稀薄になっていく点にシューマンの音楽の主観性を指摘できると思います。
 それでは、ブルックナーの場合はどうなのでしょうか。私はブルックナーの曲の楽譜も未だに見たことはありませんので、確かなことは判りませんが、シューマンの場合のような演奏されない内部の声というような音符は書かれていないと思います。シューマンに比べてブルックナーの音楽の方が各パートの独立性が高いように思うからです。シューマンの場合、各声部が独立性をもってしまうと内部の声が分裂してしまい、従って気分の主たるシューマン個人の人格が分裂してしまうことになります。(そのような分裂の傾向は、特に晩年の作品に感じられます。この分裂しそうな危なさもシューマンの音楽の大きな魅力ではあります。)ブルックナーの交響曲はシューマンの場合よりはるかにオーケストラの各楽器の音色の扱いが多彩で、それぞれの楽器の色が生かされていると言っていいと思います。シューマンの実際に響く右手と左手のそれぞれの音は単独として取り出すことはできないのですが、ブルックナーの場合はひとつのパートを単独で聴くことも可能です。前のところで、ブルックナーの音楽はゴシック建築に階層性という点で似ているところがありながら、各階層の融通無碍な流動性がある点で違うと言ったことが、ここでのブルックナーとシューマンのメロディ構造の違いにも言えると思います。
 それと、もうひとつ、シューマンの場合は内部の声を形成するために、左手と右手という二つのパートの交錯を統禦する意識が強くはたらいており、これを近代の個人のアイデンテティになぞらえることも可能です。ブルックナーには、シューマンの場合のような意識がありません。悪く言えば、行き当たりばったりなのです。シューマンのメロディは内部の声として意図されたものですが、そういう点でブルックナーのメロディは最初の意図は意識されていないように感じられます。ロマンティシズムの肝心のところが、ブルックナーのメロディでは空虚なのです。では、ブルックナーのメロディは本当に空虚なのかというと、それはシューマンの視点からのことで、シューマンの近代的な個人という枠には納まりきらない意図せざるものがあるように思います。意図せざるもの、あるいは作曲家個人の意図を越えたもの。(この空虚な、個人の意図を超えたものを、或いは無とか神とかとでも言うのか、それはどうでもいいことですが。)ブルックナーの音楽にある即興的性格の結果として、作曲家の意図を超えて作品が出来上がってしまったとでも言うようなことはあると思います。それが、全体として形式ががっちりしていないとか、細部が膨張してしまったとかという結果にでていると思います。しかし、謂わばそのような不自然さを不自然さとして聴き手の前に提出してしまう愚鈍さに、ブルックナーの音楽のユニークさが感じられはしないでしょうか。
中心となる主な旋律線を欠いたメロディ。それは、音楽としては荒唐無稽とは言えないでしょうか。それまでは、どんな作曲家もそんなものを想像だにしなかったことでしょうし、そんなものを耳にしたこともなかったでしょう。そうした奇怪なものに一貫して耳を澄ましていたブルックナーという作曲家は、独創的な音楽家というより動物じみた愚鈍さに徹した存在とでもいえるかもしれません。だからこそ、クラシック音楽の歴史は偉大な作曲家ブルックナーを生んだことを誇るよりも、こんな音楽を抱え込んでしまったことで驚き、戸惑い、そして途方に暮れるしかないのです。

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