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2017年6月 9日 (金)

私はブルックナーをこう聴いている(8)~Ⅷ.ロマンティシズム素描

 第2楽章を聴く前に、ブルックナーとは直接関係ないことですが、準備段階として少しだけ寄り道させて下さい。ブルックナーの音楽については音楽評論家宇野功芳氏の著作を書店でよく見かけたり、各処で言及される機会に接することが少なくありません。私もいくつか著作を読んだりしました。これは私の個人的な読みなので、違うと思う方もいらっしゃると思いますが、宇野氏の著作では、ブルックナーの音楽について、“人間のはかなさと神の偉大さへの認識、これがブルックナーの音楽の本質へとつながっていく。彼の芸術は決して自然の描写ではない。自然から受けた心象なのである。だから大切なのは曲の形式でもなく知的理解でもない。<感じる心>と<直観>だけである。ブルックナーの本質は<透明な響きに隠された寂寥>であり、<内省>であり、<祈り>であり、<厳しくも孤高な魂>であり、<宗教的な浄福の境地>である。”また第8交響曲のアダージョについても“第3楽章のアダージョは世にこれ程美しい音楽があったのかと思われるくらいである。憧れ、祈り、嘆き全てが集約された驚くべき内容のテーマと言えよう。”とまあ写している方が気恥ずかしくなるような大袈裟な物言いに出遭うことになります。ここで、宇野氏がブルックナーの音楽を“自然から受けた心象”と断じ、そこから“憧れ、祈り、嘆き”を感じとっているように、このようなブルックナーの感じ方の根底には、音楽を感情の表出として捉えている感じ方が横たわっているように思えます。ですから、ブルックナーの音楽に対する態度として重要なのは、“<感じる心>と<直観>だけである。”というわけです。ここでは、このことについて考えたいと思います。
 感情という言葉を持ち出しましたが、ここで言う感情は日常生活で私達が体験している現実の感情、つまり喜怒哀楽といった個別的感情のことではありません。このような個別的感情は無秩序であり、直截的に表出されるものです。ここで言っている感情とは、このような個別的感情とは対極的な純粋化された純粋感情とでも言うべきもののことです。それは、私達の現実生活での各曲面での種々の個別的様相をもって働く心の動きから開放されたものです。つまり日常生活や現実の束縛から解放して私達を浄化してくれる感情であり、対象化しえない現実を越えた超越的感情です。この感情は、美学では「美的感情」と呼ばれていて、以下のように整理することができます(竹内敏雄監修「美学事典 増補版」弘文堂 より『美的感情』の項参照)。
 ①強烈・旺盛であると同時に、全体として静謐・明朗であること。
 ②この強烈さが内面化されて「深さ」の方向に発展すること。それも美的感情は明澄で静謐であめからである。そうしてはじめて感情は深さの次元に変質する。この精度と深度は日常の感情には求められない。
 ③一定の基本情調をもって振動する総体感情としての気分のうちに溶かしこまれ、これによって浸透され、色づけられていること。
 19世紀の近代ロマン主義は、このような感情のうちに魂の奥処の生命自体の神秘的流れの運動を感じとり、それを悟性を越えたものとして捉え、霊的なものとみなしました。このような運動と音楽の動きが重なるわけです。ロマン派の音楽は、こうしたバックボーンの許で準備されたと考えられます。例えば、ヴァーグナーも心酔したというショーペンハウエルは次のように言います。“音楽が表現しているのは喜びというもの、悲哀というもの、苦痛というもの、驚愕というもの、歓喜というもの、愉快というもの、心のやすらぎというものそれ自体なのである。だから音楽はいくぶんかは抽象的に、以上のものの本質を表現し、よけいな添え物をつけずに、また動機をそのなかに入れずに表現しているのである。(ショーペンハウエル「意志と表象としての世界」西尾幹二訳 中央公論社 P.484 21行)”
 しかし、これでは個人の主観的な思い入れと同一視されてしまう危険があります。実はロマン主義の美的感情には、カントが「判断力批判」で展開した共通感覚という概念の批判的摂取が基礎としてあるのです。共通感覚とは何か。英語でいうCommon Senseを、単純に訳せば常識となります。これを逐語訳すれば共通の感覚ということになります。カントはこの共通の感覚を人間は誰でも皆持っている。だから同じように悲しんだり、喜んだりできるのだということになります。ですから、彼によれば人間が普遍的に所有する共通感覚の働きのおかげで、音楽や絵画の美しさをア・プリオリに感受することができるというものです(カント「判断力批判」篠田英雄訳 岩波文庫)。しかしロマン主義ではこのような、皆が美しいと思うものは本当に美しい、という素朴な議論には満足できなくなっていたわけです。カントへの反動からか、フィヒテはすべては各個の自我の問題として片付けられてしまいました(フィヒテ「知識学への第一序説」岩崎武雄訳 中央公論社)。しかし、これでは個人の思い入れでしかありません。ロマン主義の哲学者シェリングは、1800年に発表された「先験的観念論の体系」の中で、自然の世界の上に成り立つ理論哲学と自由の世界の上に成り立つ実践哲学とを包含する、より高い第三の哲学を具体的に展開しようとしました。つまり、実在の世界である自然と意識の世界である自我を同一化して究極の統一的世界を図ろうとしました。その最高の場として考えられたのが芸術なのです(シェリング「先験的観念論の体系」赤松元通訳 弘文堂、「造形芸術と自然との関係について」神林恒道訳(ドイツ・ロマン派全集第9巻)図書刊行会)。ですから、芸術的な美的感情は、ここでは人間の意識の面を越えて普遍的世界に妥当するものとなるのです。例えば、次に引用するのはシューベルトのリートにもなったゲーテの「旅人の夜の歌」(相良守峯訳)です。
  すべての 峯に
  憩ひあり
  すべての 梢に
  かぜ
  絶えぬ
  小鳥は森に声をかわさめぬ
  さらば やがて
  われも 憩はむ
 この詩の特色は、主体と客体、つまり自我と対象、その両者の中間の距離が解消してしまっていることです。言葉は夕暮の情調の中に解消してしまい、夕暮は言葉の中に解消しています。つまり夕暮がおのずと言葉になっているのです。そして自我はうつろいゆくものの中で漂っているように受け取ることができます。これは主客が融合している状態と言うことができます。ここでは、美的感情のもとに人間と自然とが同調しているのです。内面的なものと外面的なものが同じような調子に整えられて、美的感情のもとにおいてはあらゆる存在の本質が一つになって調和するのです。そして、曩にも言いましたように純粋感情の表現として音楽が最も適したものという主張が為されたわけです。
 さて、音楽の中で純粋感情を表現する上で主な役割を担うのは実際には旋律です。したがって、純粋感情を表出する音楽というのは旋律優位の音楽と言うことができます。また音楽に純粋感情を聞き取るということは主に旋律を聴くということに他なりません。曩に続いて、ショーペンハウエルは、旋律は“全体を導き、拘束されない自由意志出、一つの思想の絶えず意味ある関連を保ち続けながら、始めから終わりまで進行して、一全体を表わす主声音”であると言います。彼にとって音楽は最高の芸術的表現です。それを可能にしているのは実際には旋律なのでした。つまり、旋律は“人間の思慮を経た生活と努力たる、意志の客観化の最高段階”なのです。そして音楽が感情の表現であり、同時に理性の表現であるのも、旋律に由来します。しかし“旋律はそれ以上を言い表わす。旋律は最も秘めやかな歴史を物語り、意志のいかなる感動をも、いかなる努力をも、いかなる動きをも描き、つまり、理性が感情という広い消極的な概念を総括して、それ以上はその抽象作用に取入れることのできないすべてのものを描くのである。それ故に、いつでも、音楽は感情と激情の言葉であり、言語は理性の言葉であると言われた。(ショーペンハウエル  前掲書)”
 それでは、このような音楽を聴くというのは具体的にどのような聴き方となるのでしょうか。音楽は聴く者の内面に作用して動かします。働きかけるのは精神とか悟性へではなくて、人間の主観的な中心としての心であり、感情の内奥に窺い知れぬ深みを持つ心情に対してです。音楽は心情の奥底に余響をとどめ感動を心情の深いところから呼び起こします。それは心と音楽との共感あるいは感情の交融です。聴く者の心情が単に圧倒されたり刺戟を受けただけでなく、内的感受性によって音楽と共鳴したということです。この共感に対して理由を問うことは不可能とされます。理由を問うのは共感しない人なのです。ここでは聴く者は音楽を自我に吸収して同化させると同時に、聴く者も音楽に溶け込んで我を忘れ心を奪われるわけです。自他の区別は解消し、我を忘れることで自己は失われ、心を奪われた人の意識は最早いかなる客体にも対立することなく、これから離脱し音楽の滔々たる流れに浸っていくわけです。この時音楽を享受するということは、自他の区別は解消していることから自己享受でもあるわけです。音楽は聴く者の中にあるのです。謂わば“魂の完全なる受動的帰依”、音楽の中への沈潜、それは作品を目の前にあるものとして捉えるのではなく、直接にそれを体験することなのです(ヴァッケンローダー「抽象と感情移入」 岩波文庫)。
 宇野氏がブルックナーの音楽を“自然から受けた心象”と断じ、これを享受するのに大切なのは“<感じる心>と<直観>だけである。”と言っているのは、宇野氏がここで考えたロマン主義の音楽体験の影響下にうることは明白であるように考えられます。しかし宇野氏について、他のことには敢えて目をつぶることにしますが、このようなかたちでブルックナーを深く享受しえたとして、どうしてこれほどまでに陳腐な言葉でそれを語ることができるのでしょうか。蓮實重彦は、かつて物語は知に従属し、知っている者だけが知らない者に向かって特権的に語りえたのに、フランス革命の第二帝政期(1852~1870年)以来、誰もが既に知っていることを確認しあうために物語るようになり、物語を通して知っているものしか知ろうとしない<説話論的な磁場>が形成されたと、説話論的な構造について述べています。彼によれば、この<説話論的な磁場>に生きざるをえない現代の人間は、自分の言葉で語っているつもりが、いつの間にか他人の言葉で他人の問題を語らされてしまっていることになります。このように語られた言葉を彼は<紋切型>と呼び、凡庸であるといいます(蓮實重彦「物語批判序説」中公文庫 P.30~)。感情というのは、本来、美的感情といえども個的なものであるはずです。カントの共通の感覚の素朴さに満たされなかったロマン主義者がかけがえのない個人の個的な感情を導き出したのに対して、宇野氏はあまりに紋切型で語ってしまい感情の主体である個人を圧殺してしまいました。それを殊更に大仰に語るのだから空虚にさえ感じられることを敢えて行なう理由が理解できません。繰り返すようですが、感情というものは美的感情といえども、孤独なもののはずです。聴く者と音楽との間には親密な愛がなければ成り立ちえないものです。私だからこそこの音楽を愛するのだし、この音楽だからこの音楽を愛するのです。ブルックナーの音楽はすべての人に語りかける音楽ではありません。それをあえて陳腐な感情表現の言葉で語ってしまうことでブルックナーと聴く者の親密さへの裏切りをおこなっているのではないか、宇野氏の姿勢そのものに大きな自己矛盾があるのではないか、というのが私の宇野氏に対する批判の要点です。ブルックナーは厳しい音楽だと言いながら、それを聴いて語っている自分が全然厳しくないのは、言っていることと行なっていることが食い違っているというわけです。
寄り道が、また長くなってしまいました。もとより、私はブルックナーの音楽についてこのような態度は取りません。特にこれからの第2楽章のような音楽について、どうしてか宇野氏のように語ってしまう弊に陥らないよう自戒をこめて述べさせて頂きました。

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