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2017年6月19日 (月)

私はブルックナーをこう聴いている(8)~Ⅸ.第2楽章(1)

 前章を読まれた印象では、私はブルックナーの音楽に感情移入をすることがないと受け取られた方もいらっしゃると思います。慥かに、私は宇野功芳のようにブルックナーの音楽に“憧れ、祈り、嘆き”とか“<透明な響きに隠された寂寥>であり、<内省>であり、<祈り>であり、<厳しくも孤高な魂>であり、<宗教的な浄福の境地>である。”というように語ることを回避しています。それは、“憧れ、祈り、嘆き”などというコメントを持ち出すことで、ありもしない感情的な起伏を捏造することで、音楽の音の響き或いは音の動きに耳を澄ますことなくコメントに快くまどろわせ、心理的な納得を自らに強要し、しかもそれが陳腐なコメントなどに到底納まり切るものでない不自然なものであることすら忘却させてしまうことを怖れるからです。このようなコメントに媚びる音楽、例えば標題音楽と言われるもの、は“憧れ、祈り、嘆き”という名で聴く者が想像する雰囲気を具体的に響きと化することで、音楽としてどれほど不自然で、その不自然を自然と錯覚させるための音楽的技法が、音楽の響きや動きをどれほど陳腐化、凡庸化してしまうことか。(感情的になってしまいました。私の標題音楽への上述のようなコメントは私自身の音楽の聴き方に由来するものです。)ブルックナーの音楽がその類のものでしたら、最初からこのような記事を書こうなどという気持ちになりませんから。それでは、この第2楽章は感情を表わす言葉の使用を回避しながら語るのは困難ですが、敢えて始めてみたいと思います。
 楽章冒頭の僅か10秒ほど、楽譜なら2小節程度の間のワンフレーズ。ヴァイオリンがシューベルトの子守歌の主旋律によく似たメロディを、ゆっくりとレガートで奏でます。片やチェロが、ガッシリと低音を支えるばかりでなく、まるでこちらの方が音楽全体の流れをリードしていると言わんばかりに自己主張をするかのように、低音の動きをアピールします。この時点では両者の二つの線が対比的によく聞こえてきます。このフレーズの後半で、ヴァイオリンは二手に分かれると、第二ヴァイオリンは主旋律に手を添えるような動きをします。だんだんと弱音になっていく経過の中でのこの分岐は絶妙で、この弱音の分岐はとても印象に残ります。ヴァイオリンの動きに対して、チェロの方は弱くならずにいます。ワンフレーズが終わり次へと移る時、このチェロから続いているような次への橋渡しの細かな下降の動きが主に低弦で弾かれます。この橋渡しが終わるか終わらないうちに一休みしたヴァイオリンが、この橋渡しに呼応するように音階を高く上昇していくようなメロディを奏でます。このメロディの間はチェロは休んでいて、ヴィオラや第二ヴァイオリンが寄り添うようにヴァイオリンの主旋律に随き従います。この添え物の動きですが、前のフレーズの後半で主旋律から第二ヴァイオリンが少し分岐し、さらに次のこのフレーズでヴィオラも加わって分岐が大きくなり、それに従い主旋律の幅がだんだんと拡がってくるわけです。僅かですが、それにつれて少しずつ全体もクレッシェンドして行きます。つまり、フレーズが進むにつれて、音楽がだんだんと拡がり大きくなっていくのです。そして、このフレーズの後、チェロをはじめとした低弦がさっきと同じような橋渡しをします。これにヴァイオリンがあまり高くないところで、チェロとは対照的に長い2音で応じます。それにまたチェロがさっきと全く変わらずに橋渡しを繰り返す。ヴァイオリンが殆ど変わらずに応じる。これにホルンが少しだけ絡むのですが、これがヴァイオリンとチェロの掛け合いの度に、少しずつ絡み方を変化させるがとても鮮やかな印象を受けます。このような掛け合いが3回、4回と繰り返されます。[0:00~0:50] ここで聴かれるメロディの印象について、考えてみましょう。まず、単一の楽器で或いはユニゾンで演奏されるメロディの長さです。意外に短いのです。しかも、メロディ自体に伸びる力が感じられないというか、あるメロディがひとくさり演奏されてそこで流れが一旦途絶えてしまう。他の作曲家、例えばシューベルトの場合はメロディがどんどん先の方へと伸びていくに従って、音楽全体の流れが進行するわけです。ハ長調の「グレート」の名を持つ交響曲は、冒頭でホルンのメロディがただ単に吹かれるだけで、曲は進行し、そのメロディが進むにつれて派生的なメロディが生まれ、それらがまた曲を進めていくという、聴く者はメロディの推進力に翻弄されることになります。それがシューベルトの音楽の魅力のひとつと言うことができます。さらにシューベルトの場合は、メロディが自力で伸びることである程度の長さなったところでリズムの揺れと結びついて、うたうのです。ブルックナーには、残念ながらこうした楽しみはあまり期待できません。この第2楽章の冒頭で言うならば、弦楽部の各パートで各々演奏される短い途切れ途切れのメロディが、一緒にでもなく、各々が別々にてもない、ひとつのパートのメロディが終わるか終わらないうちに別のパートがはじまる。各々のパートのメロデイの線が糸を撚るように合わさって全体でメロディとなっているように聞こえてくる。その中には、パート同士の掛け合いもあれば、コントラストをつけた対立もある、多元的な要素が含まれているわけです。このように、聞こえてくるメロディにシューベルトの場合のような単一の力強い流れはないので、メロディがうたうということはブルックナーの場合は、似合わないと思います。しかし、例えばヴァイオリンが主旋律を弾きながら、途中で第二ヴァイオリンが弱音で分岐し第一ヴァイオリンの主旋律に微かに手を添えるような動きをするところなどは、シューベルトでは絶対にお目にかかれないところです。全体としての主旋律と聞こえるものでも、そこから逸脱してしまう程の声部の動きがあって、その一々の動きにも目が離せないのが、ブルックナーのメロディの、シューベルトとは違った魅力のひとつです。本来はそこで途切れてしまうはずの短いメロディが、いくつか撚り集まり微妙に配列されることで全体として繋がってしまう。連続と断絶という矛盾対立する性格が同時に共存している、何度も言うようですが、ブルックナーの音楽に底辺から動きを与えているのはこういうものであるし、聴き手である私を挑発する、通常ではありえない不自然さ荒唐無稽さであります。そしてまた、メロディのつくられ方にも第1楽章のところで触れた多層的な性格も現われていると言うこともできます。
 転調をしたのでしょうか、ホルン、ファゴットと続いて現われる持続音が、曲面の展開を告げ、それに導かれるように弦楽部が第1音を長く伸ばした第1楽章のユニゾンの動機を思い起させるようなメロディを弾きます。このメロディの第1音を長く伸ばすのに、少しづつズレながら、殆ど対位法のように聞こえ方をして、ホルン、ファゴット、オーボエが入れ変わりたち変わり絡みます。これを繰り返しながら全体にクレッシェンドしていって、強音のユニゾンで件のメロディを鳴らします。[0:50~2:00] 最初に取り上げた部分の後半もそうですし、ここで取り上げた部分のクレッシェンドしていく繰り返しもそうですが、繰り返しが同語反復のように聞こえるのです。ここまでの中でも度々みられたことですが、ブルックナーは複数の楽器が掛け合いを行なうような繰り返しを行ないますが、この掛け合いには感情的な性格が全く欠けているように思います。各楽器がお互いにメロディを歌い合うというのではなくて、同じかたちを何度となく繰り返す鸚鵡返しのように半ば機械的に進行しています。これらは、コントラストを際立たせて強い緊張を醸し出すわけでもなく、溶け合って和音として融合してしまって最終的な結論に到達するわけでもありません。あたかも、お互いのパートの存在を確認しあっているかのようです。ここに表情とか感情とかいった本来の意味での掛け合いの題材となるものはなく、幾分か模倣的あるいは儀式的であるようです。しかし、ブックナーの音楽の素晴らしさは、まさしくこの鸚鵡返しの反復の中に存在しています。このような稀薄で曖昧な相貌のもとで響き合うということは、徹底して孤独なモノローグとも互いに意志を疎通させるダイアローグとも異質の、新たな現実を獲得することになります。それは、響きの表面を滑走するように決して表現内容(つまり感情とかメッセージとか)などには踏み込みようがない、掛け合いの中で当の自分自身を模倣するしかない、表現内容という側面を極度に稀薄化した、音の響きの表層的な戯れとでも言う他ない動きなのです。所謂掛け合いとして想定されたものを繰り返すことで表情とか感情のキャッチボールのような場面や劇的な有効性を主張するのとは違って、儀式というか殆ど荒唐無稽の演技とでもいうか、とにかくそれはナンセンスな音の響きそのものの生々しい露呈ぶりなのです。それほど、ここでの音の響きは、尤もらしい掛け合いの形式を取りながら、軽々と表現内容の圏域を離脱して宙に舞っているのです。こんな無意味な響きを無意味として露骨に現わしてしまうブルックナーの音楽に私は狂気を感じずにはいられません。
 強音のユニゾンで上述のメロディが弾かれ金管楽器も入って繰り返されると、突然弱音になり弦楽器が低くつなぎのフレーズ。そしてまた、突然強音になってユニゾンで件のメロディを繰り返します。そして突然弱音になって。弦楽器のつなぎを、フルートが繰り返すと、弦楽器がこの後はっきりと奏でられるメロディを先取りするかのように、二手の分かれて体位法的に絡み合いながら弾き合います。オーボエが繰り返し、弦楽器、ホルンがつなぎをします。[1:50~3:40] 強音でのユニゾンと弱音のつなぎが、聴く者を驚かせるように突然入れ替わり、それが繰り返されます。また、繰り返しですね。よくよく思い出してみれば、よく似たメロディをつっけんどんな強音と控えめな弱音が繰り返します。ブルックナーの音楽に度々現われる繰り返し。表情に乏しいような複数のパートが何度も同じ動きを繰り返すこと。それも、機械的に、同じ過程を無限に反復させること。これが、どうしてこれほど魅力的なのでしょうか。単調といえばこの上なく単調で、殆ど機械的とも思えるほどの不自然と言ってもいい動きの反復を、このままずっと聴き続けていたいと思うこともあります。そこでは、どのパートの楽器の響きも、全てが音の抽象的な動きそのものと化してしまって、この動きを捉える聴く感覚そのものが動きに同調して、繰り返しの生み出すリズムに溶け入ってしまって、まるで聴くことをやめてしまったかのように感じられるのです。まるで、流れる時間そのものを、空気の振動として皮膚の表層でうけとめているかのような印象なのです。聴いている自分は、もしかしたら聾なのではないか各楽器とかオーケストラの響きなどがすっぱりと抜け落ちて、動きそのものの中に生きている、そんな体験をするのです。だが、こんなに心地良い時が永遠に続くはずがないという思いが脳裏をかすめてしまう。いずれは、この繰り返しの時間は終わり、曲は次の曲面に移らなければならない。そうしなければ、この音楽は作品として成り立たない。そうした息苦しい思いが、平静で移りゆく緩徐楽章の経過の部分にひとつの緊張感を導き入れるのです。
 ブルックナーの音楽にあって聴く私を感動させるのは、コラール風の祈りに喩えられるような所謂感情を深く揺さ振るとコメントされるようなアダージォの佇まいではありません。そうしたものに心を揺さ振られるたり、感極まるのはその人の自由で、私が文句を差し挟む筋合いのものではありません。ブルックナーの作品が煽りたてる響きの刺戟は、より抽象的であると同時に直接的な、つまりは誰もが間違いなく耳にしていながらもたやすくは抒情とは折り合いがつけぬが故に切り捨てられてしまいがちなイメージの力から来るものと考えます。ブルックナーの音楽を千編一律のワンパターンの退屈さから救っているのは、表層に露呈した響きのかたちや動きの戯れが、音楽を支えると考えられているような形式等を超えた無媒介的な運動をあたりに波及させるという、音楽体験の生々しさに他なりません。だからこそ、ブルックナーを聴く際には、交響曲という形式秩序に埋没することのない個々の響きや動きを、不断の現在として反芻することが必要なのです。ブルックナーに限らず音楽を聴くという体験は、何よりもまず、聴く耳が親しくまさぐりつつある表層としてのイメージを、全面的な表層性において受けとめ、音楽の形式秩序にとっては絶えず過剰なる何ものか、あるいは絶対的な欠落のごときものとして、その現存ぶりに怯えることでしかないのかもしれません。

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