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2017年6月 4日 (日)

私はブルックナーをこう聴いている(4)~Ⅳ.ブルックナーとゴシック建築?

Brukneramian  前回で触れられなかったことがあります。ここでは、そのことを少しだけお話ししたいと思います。開始部分の分散和音の「暗い波のような動き」が、実は低弦の前のめりの循環と、ヴァイオリンの前へ前へ…の上昇と後へ後へ…の下降という幾つもの動きを包含していることは前章で述べました。このことでブルックナーの音の動きに大きな広がりを感じさせられるわけです。そしてまた他方では、この「暗い波のような動き」が曲全体を動かしているとも言えるのです。前章で開始部分の私なりの素描を行なった際、「音楽の流れ」という言い方をしました。比喩的な言い方になりますが「暗い波」がいくつも寄り集まって、全体の「流れ」をつくるというわけです。具体的にはどうか、ということは前章の記述を参照して下さい。ヴァイオリンの前への下降の動きが優勢になると、「暗い波」は推進力が増し、また管楽器が後に引かれるようなアクセントでの動きと、ある時点では動きの方向が均衡して曲全体が静止したり、次の時点では大きく前へ進んだりという具合です。この「暗い波のような動き」をする分散和音が曲全体の節目節目の至る所に現われるのです。例えば第1楽章では、音楽の流れの節目には必ずといっていいほど現われています。第3楽章のスケルツォ主題など分散和音の変形ととれないこともありません。第4楽章も冒頭は分散和音です。こうしてみると、ブルックナーの音楽の流れは一種の階層構造を持っていることに気が付きます。階層構造などというと難しく聞こえるかもしれません。例えば、海を想像してみてください。海岸に立っていると大波小波が寄せては返すがわかります。海原の至る所に小さな波が起こりそれが寄せてくるわけです。これらの小さな波を呑み込むような大きな波が起こり、その大きな波が幾つも集まって大きな海の流れが起こる、それが海流です。小さな波から海流まで色々な波が何段階にもバリエーションがあり、それらが互いに関わり合ってということです。そして更に様々な階層の波がすべて平等に扱われているのが何よりもブルックナーの音楽の特徴と言うことができます。小さな波は最大の海流の部品ではないのです。具体例はこれまでのところで何度も触れてきているので参照して下されば幸いです。
Brukneramian2  さて、ここで寄り道をします。ブルックナーの音楽そのものとは離れますので、興味のない方は次章までとばしてしまって下さい。上述したブルックナーの音楽の多層的な階層構造というと、私は中世のゴシック建築とりわけ大聖堂(カテドラル)を連想してしまうのです(こじつけですが、ブルックナーの音楽を建築に喩えているのは私以外にもオーストリアのカトリック教会のバロック建築に見立てている吉田秀和(「LP300選」新潮文庫 P.205)のような例もあります。他方、ゴシック建築を持ち出すならば同時代のノートルダム楽派に対して(皆川達夫「中世・ルネサンスの音楽」講談社現代新書 P.91)が適当かもしれませんが、この文章はあくまでも私の独断と偏見の聴き方に基づくものですから。)。パリ郊外のシャルトルの大聖堂やアミアンの大聖堂など12世紀から13世紀にかけての時期の建築です。大きな特徴として、ばかでかいこと、多くの尖塔が高く聳えていること、バラ窓と呼ばれる大きな円形のステンドグラスが正面にあることなど、すぐそれと判ります。このゴシック建築の構成についてアーウィン・パノフスキーという美術史家は「ゴシック建築とスコラ哲学」(前川道郎訳 平凡社)のなかで次のような指摘をしています。パノフスキーはゴシック建築とスコラ哲学の間に、著しい平行関係があることを指摘しています。彼の挙げる平行性とは、部分と全体の関係におけるものです。彼によれば、スコラ哲学の記述形式の特徴はまず、神は存在するという究極で唯一の命題からすべての記述が展開されるという演繹を主として用いていることであり、またその展開の際の精妙で徹底的な階層性であり、そしてその厳密な階層的な展開の結果として生じる、同一階層に所属する各部分の等価性です。全体はまず冊に分解され、冊はさらに章に分解され、章はさらに項に分けられ、論述は演繹的な手続きを経ながら、細部へ向かって限りなく階層的に分解されていく。これが、彼の言うスコラ哲学です。そして、この階層的分解こそが、ゴシック建築の構成論理であったと、パノフスキーは指摘します。まず全体は身廊、袖廓、シュヴェ(教会の東端部、内陣と周廓のこと)という三つの部分に分解されます。分解されたそれぞれの部分は、さらに再分割されます。身廓は中央の主廓を中心にして両側に側廓を持つ形式に再分割され、シュヴェの部分もまた同一の形式に従って、内陣と周廓とに再分割されます。このような階層性はゴシック建築のすべてを覆い尽くしていると、彼は言います。支柱は大柱(ピア)へ分割され、大柱はさらに小柱(シャフト)へと分割され、小柱はさらに細かい小柱へと再分割されます。このような特性を持ったゴシック建築と、例えばアテネのアクロポリスの丘の上に建つパルテノン神殿に代表されるギリシャ古典主義建築と見比べてみて下さい。神殿の支柱は自体分割不可能であり、ゴシックの重層性は見当りません。神殿は、縦には柱(支えるもの)横にはまぐさ(支えられるもの)との組み合わせで構成されていて、柱とまぐさは構造的に不等価です。そして、この不等価性ゆえに神殿の柱の力強さや象徴性が感じられることになるのです。これに対して、ゴシックの特徴的なアーチは、それを構成するひとつひとつの石が構造的に等価なのです。つまり、どの石にも同じような力がかかっているため、支えるものと支えられるものの区別がないのです。つまり、ゴシック建築の構造的な階層性とエレメントの等価性は各部分がとくに個性をもつことを抑えてしまいます。それは建築がどんどん非物質化して抽象的な空間となって中の人間を包み込むことになります。
 さて、パノフスキーの指摘にはありませんが、ゴシック建築とスコラ哲学を持ち出したのはもう一つ理由があります。スコラ哲学というのは、実はアリストテレスの中世キリスト教的な読み替えなのです。アクティーノの聖トマス(トマス・アクィナス)に代表されるスコラ哲学の以前は聖アウグスティヌスの教説があり、こちらは新プラトン主義でプラトンの読み替えです。かなり強引な類比ですが、この当時まではプラトンとアリストテレスという二つの教説の潮流が存在していたと言っていいと思います(哲学史の簡単な概説書を参照してくだされば、判ると思います。たとえば、バートランド・ラッセル「西洋哲学史2」市井三郎訳 みすず書房)。プラトンとアリストテレスは共にイデアという超越的なものを指向する点で共通していますが、そこに至るプロセスは全く異なっています。先ずプラトンにとって、イデアとは超越的であると同時にきわめて客観的なものです。それは、現実とも人間とも切り離された、それ自体が存在するきわめて客観的なもの、理念です。つまりプラトニズムは一種の客観主義です。古典主義建築であるパルテノン神殿は、プラトニズムの建築の世界における対応物と言うことができます。そこは建築各部の寸法を支配する比例体系をはじめとして、きわめて客観的な美の基準(イデア)が全てを支配する場所であり、かつアテネの現実の都市とは明確に区別された超越的な神話の世界なのです。一方、アリストテレスはプラトンに比べて現実的であり、分析的であると言えます。彼は、プラトニズムのイデアの超越性を、即ちイデアと現実の切断を批判します。彼によれば、イデアはこの世のあらゆる現実の中に存在しているのです。イデアは個物とともにあるというわけです。イデアの次に問題となるのはイデアへの到達方法です。プラトンはイデアという超越的かつ客観的世界に向かって人間は理性的に上昇すると説きました。これに対しアリストテレスは、個物の中にあるイデアを人間は個人の感覚によって把握すると考えたのです。プラトンの客観主義に対してアリストテレスは主観主義なのです。さらに彼は、物を感覚で把握する時、人間は物の質料(素材)からではなく形相から作用をうけると考えました。この意味において、アリストテレスの教説とゴシックの建築空間は似ていることが指摘できます。前ページの例でアーチの石の等価であるため個々の石の材質としての個性が抑えられて非物質化していくことからもあきらかなように、ゴシック建築は非実体であり、主観的なのです。アリストテレスが感覚を呼び起こす原因を形相に求めて質料(実体)を否定したように、ゴシックの建築もまた徹底的に実体感、素材感を否定しました。実体のかわりに幾重にも階層化された構造という抽象的な形相として建築を構成しました。階層とは即ち一つの個物です。階層という個物を積み上げていくゴシック建築は、単一な階層が全体を支配するパルテノン神殿とはまさに対極的な構成法と言うことができます。中世の神学者たちは、神という唯一絶対なるものを頂点とする階層的な体系を築きあげようとしたわけであり、そのスタティックで階層的な体系は主観主義で生命を与えられたわけです。それがスコラ哲学であり、ゴシック建築の大聖堂なのでした。スタティックでヒエラルキカルな体系と主観主義を組み合わせたところにアリストテレスの哲学の本質があり、中世において両者はそれを継承したのでした(馬杉宗夫「大聖堂のコスモロジー」 講談社 P.147)。
 さて、長い寄り道になってしまいました。前のページで海の波に例えたブルックナーの音楽に私が感じる階層性は、このようなゴシックの階層性とそこから派生する物質の否定及び主観性に通じるところがあると思うのです。ブルックナーの音楽が、他の作曲家のショパンやバッハと違って作曲家のパーソナリティと一緒になって語られてしまいやすいのは、そういった点から説明できるのではないでしょうか。但し、だからと言って私はブルックナーの音楽を、そのように語るつもりはありませんし、ブルックナーの音楽自体そのような枠に収まってしまうようなものではないと思います。それでは、そのような枠からはみ出てしまうものとは何なのでしょうか。それについては、後で考えていきたいと思います。

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