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2017年6月22日 (木)

私はブルックナーをこう聴いている(11)~ⅩⅡ.第2楽章(2)

 では、ブルックナーを聴いている私は、どのようにして驚きの行程を辿り得るのでしょうか。それには、やはり空虚な主旋律に向けて耳を澄まし続けなければなりません。空虚な旋律、それは<聖なる空虚>として神の超越的な宇宙につながる通路でありました。しかし生身の人間にとって、そんな超越と四六時中向き合っていることはできません。そんな時空虚であるはずの旋律はどんなことになるのか。そういった観点からこの曲全体に注意を向けていくと、その時聞こえてくるのは、この第2楽章の中でヴァイオリンの刻みにのって中声部の弦が息の長いメロディを単一の声部で弾き切ってしまうところなのです。[3:45~4:25]その事実に、私は心の底から驚こうと思います。いったいこんなことがあっていいのだろうか、と。しかも、このメロディは、これまで全く見られなかったよく歌うメロディでもあります。事態はブルックナーにとって尋常なものではないのです。とりたてて美しいとも思えないこのメロディが単一の声部で剥き出しのまま始まる時、聴く私はその無媒介的な迫力或いは生々しさに圧倒され、思わず息をのまずにはいられなくなります。中心となる旋律がない場合(この曲でいえば、それが尋常なわけです)私は音の動きや響き全てに向かって耳を澄ませなければならないのですが、一旦それが出現してしまうやいなや驚きの深さに耳を塞ぐこととなるのです。更に言うならば、ブルックナーの第7番以後の交響曲の旋律には、そのような瞬間が多々あり、旋律というものの意味を変質させてしまうという聴く物に苛酷な体験をさせるのです。その意味でブルックナーの後期とは、あるべきものを排除した上で、その排除そのものを排除してしまったという点で、他の音楽とは絶対的に隔たっているものなのです。
 驚くことに続いて、更に聴きすすめていくと、曲想の小さなギャップの後に今度は「ブルックナーらしい」(これまで申して上げてきた意味においです)旋律が待っています。ここで聴いている私は、強い刺戟の後でホッと胸をなでおろすことができましょう。しかし、あのような驚きの後です。安心していていいのでしょうか。もしや何かあるのではないか、そんな訝りにも似た期待がないわけではありません。ブルックナーの音楽とは、このように聴く者に、不断の緊張を強いずにはおかないのです。
 “古いクリスマスの歌に由来する”“神秘的”と解説書(「作曲家別名曲解説ライブラリー5 ブルックナー」音楽之友社)にある旋律が弦楽部によって弱音で囁くように始まります。まず、ヴァイオリンによって2つの音が平行に鳴ります。一拍措いて、これに応えるように上下の動きの少ない一節が鳴ります。そして、細かい動きが前の一連の応答を包み込むように続くという、これまで聴いてきたブルックナーパターンとでも申したいほどワンパターンの旋律のつくりです。[5:10~6:10]私は、音楽の知識が希薄なので、この旋律の元歌の“古いクリスマスの歌”を知りません。(もっとも、音楽を聴く上で知識などというものは邪魔以外の何物でもないというのが私のスタンスではあるのですが)それにしても、この旋律は第2楽章冒頭の旋律から、ということはこの交響曲冒頭の動機から派生したもののように聞こえてこないでしょうか。この旋律からクリスマスを連想するようなことが、私にはできません。さらに言うならば、エリアフ・インバル指揮のフランクフルト放響のCDで聞かれるようなヴァーグナーの楽劇からの引用にしても、上述のブルックナーパターンに則った旋律で、元々のヴァーグナーの楽劇の中での位置とか意味合いなどとは切り離されて旋律のパターンのみが恣意的に引用されている。つまり、古いクリスマスの歌にしろヴァーグナーの楽劇からにしろ、元々の意味を解体されて強引にブルックナー・パターンに当て嵌められているのです。しばしばブルックナーを敬遠する人の口から退屈とかワンパターンという言葉が洩れてくるのを聞きます。これは私には、(西洋のクラシック)音楽というものそのものに由来していることのように思うのです。多くの凡庸な音楽家たちがその退屈さや強引さを曖昧にやりすごす方向で音楽をつくりあげているとき、一人ブルックナーは敢えてその退屈さや強引さを誇張してみせたと考えています。
 古いクリスマスの歌にしろヴァーグナーの楽劇からにしろ引用するのなら、もっと美しい旋律は沢山あるだろうに、もっと歌う旋律だって、リズミカルな旋律だって、劇的な旋律だってあるじゃないですか。ロリン・マゼールがやったように(あれほど下手であくどくなくても)指輪四部作の管弦楽部分を繋ぎ合わせて交響作品にあつらえることだってできたでしょうに。だが、ブルックナーは、それがあたかも一つの形式的必然だとも言いたげに、ここまでの旋律をブルックナーパターンで押し切ってしまいます。これが形式的な必然であるのなら、まるで形式そのものが退屈であり強引なのだとしか考えられないかのように。にもかかわらずブルックナーパターンのゴリ押しが形式的必然だというなら、それには、古い歌やヴァーグナーの秩序とは異質の要請が問題となってくるはずです。ブルックナーパターンが古い歌やヴァーグナーの意味を解体してしまったとしても、ロマン主義素描のところで見たようにブルックナーの音楽にも稀薄ではあるけれど意味的要素はあることはあります。音楽というものは、現実の音を抽象化した楽音によって構成され、現実には存在しえない抽象的な存在者であることは確かではあります。しかし、それを現実に聴くのは生身の人間である私です。私が、そこにある程度の意味を付与しなければ、それを価値あるものとして身近に感じることは不可能です。ブルックナーとて例外ではありません。しかし、その意味が現実の音の響きを介してしかあらわしえない音楽の場合、一曲の作品にはその意味の構造に同調したりさからったりするもする今一つの構造が存在することになると思います。それは、音の響きの意味的な連鎖を超えて、意味の推移とは異質の領域で交錯する細部の表情といっていいものであるはずです。それはブルックナーにとどまらずあらゆる音楽家が、そこで思い切り自らの想像力を開放する場であるわけですが、ブルックナーの場合、退屈なワンパターンとも言い切れる抑制された意味的な構造とは対照的に、この細部にあっては寧ろ野蛮で狂暴なまでに自己を主張し、全曲の均衡を崩しかねないことさえあるといえます。
 レッシングが著書「ラオコーン」の中で言って以来、音楽は時間芸術である(G.E.レッシング「ラオコオン-絵画と文学との限界について」(斎藤栄治訳)岩波文庫 正確に言えば、レッシングは著作の中では、音楽には触れてはいない。彼は芸術現象を秩序づけている時間と空間の原理を抽出することによって「時間芸術」と「空間芸術」の違いをあきらかにした。音楽は、文学や演劇等とともに、時間の相のもとに実現し、時間の中で展開することから「時間芸術」に分類される。)としばしば言われます。過去現在未来と一直線の時間の流れに沿って、この音の後にあの音を、このフレーズの後にあのフレーズをいった具合に音楽家は全てを間隙なく組織しなければ作品は成り立ちえません。もちろん、どんな音を選択しどんなフレーズを排除するかについては作曲家が至上権を握っているわけで、その限りにおいて自由を享受しているとは言いうるわけです。しかしながら、その自由は、始まりの瞬間から終わりまでのすべての瞬間を過剰も欠落もなく継起的に配列して組織しなければならないという制約に較べれば相対的でしかありえません。音楽というものには時間を軸とした統合的な秩序というものが厳然と存在しており、ブルックナーといえどもそれからはいささかも逸脱していないはずで、ブルックナーパターンの旋律もその秩序にしたがって配列された一連の音の響きからなっており、また逆にこの旋律も秩序にしたがっていると考えられます。しかしながら、ブルックナーの音楽にあっては、ひとつの瞬間に盛りこまれた音の情報はきまって複数であって、一定の時間にわたって継続しているという点から、統合的な秩序へと素直に還元されるのを拒むということがあります。例えば、ここでの“古いクリスマスの歌”からの旋律。ヴァイオリンに上下の動きが少なく、その分低弦部がかわって上下に動くので、高音のテナーが動かないまま転調したような、微妙なうつろいの印象を受けます。(マーラーの交響曲ではコントラバスなどの低弦部が独立して旋律を担うことがありますがブルックナーの音楽はマーラーとは違った意味合いでですが、低弦部が低音部で土台を支える以上の独自性を持たされているのが、こういう箇所で判ります。)“古いクリスマスの歌”からの旋律で聴くことのできるのは、“神秘的”な旋律であることにとどまらず、動かないテナー部のヴァイオリンであり、低音を支える以上に独立の旋律をかたちづくる低弦部の動きでもあるのです。実は、ここに、統合的な秩序から最も遠いブルックナーの自由さが露出していると思うのです。それをすぐさま無意識の跳梁する場とは言えないまでも、秩序にたいする意識のこわばりや知性の反省的な統禦から解き放たれた過激さが感じられると言っても過言ではありません。過剰さゆえ逸脱した細部は、統合的秩序の連鎖を超え、さらには一つの作品という限界を超えて些細な類似を介して別の細部と響応しあう。“古いクリスマスの歌”から低弦部の動きを聴くことができれば、第1楽章冒頭の“暗い波のような動き”をする分散和音の後向きのヴァイオリンの動きと親しく連繋しあっているのに立ち合うことができるわけです。さらに、そこから例えば第5交響曲第2楽章の中ほどの分散和音に親しく微笑を投げかけているのにつきあうことができることになります。そして、その事実はブルックナーのひとつの作品の旋律が、単に“古いクリスマスの歌”にとどまらず、低弦部の動きという表面的な音の動きででもあることを明らかにかるものです。第3交響曲では“古いクリスマスの歌”の低弦部の動きが、第5交響曲第2楽章の中ほどでは分散和音と親しく遭遇することになる。つまり、それぞれの作品では断片であったものが、唐突に連帯しあうのです。こうした遭遇と連帯を可能にする関係が、個々の作品を超えて張りめぐらされている細部の網状組織をかたちづくり、動きを与えているのです。それが統合的な秩序と戯れることで聴く者に刺戟を与えるのです。さらにブルックナーにおいて特徴的なのは、類似によって連繋しあう細部が想像力の働きを介して現われるような潜在的な存在ではなく、あくまでも顕在であってそれが響きの表層で戯れあうことなのです。このような運動、これこそがブルックナーを聴くことにある特権的な体験とは考えられないでしょうか。
 注 *1: 第16回ブルックナーを聴く会レジュメ P.58 (「作曲家別名曲解説ライブラリー5 ブルックナー」音楽之友社)
   *2: G.E.レッシング「ラオコオン-絵画と文学との限界について」(斎藤栄治訳)岩波文庫
       正確に言えば、レッシングは著作の中では、音楽には触れてはいない。彼は芸術現象を秩序づけている時間と空間の原理を抽出することによって「時間芸術」と「空間芸術」の違いをあきらかにした。音楽は、文学や演劇等とともに、時間の相のもとに実現し、時間の中で展開することから「時間芸術」に分類される。

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