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2017年6月 6日 (火)

欧州のテロ事件についての無責任な放言

 このところ、ヨーロッパを中心に市街地などでテロ行為があって、多数の人々が犠牲になった事件が頻発しています。先日の英国のコンサート会場での事件については、その当日のコンサートを開いていたミュージシャンが、同じ市内の別の野外会場でより多くの人を集め、豪華ゲストも参加した大々的なコンサートを開いていたのが報道されていました。犠牲者への哀悼とか、テロに屈しない姿勢とか、色々な意味づけはできるでしょう。また、以前にパリで新聞社がテロに遭った時は、街の人々が屈しないとデモンストレーションを繰り返していたのが報道されてもいました。だからといって一般化してしまうのは強引かもしれませんが、ヨーロッパの文化というのか、暗黙の前提なのでしょうか、こういう場合、正面から戦おうとする、その姿勢を鮮明にしようとする。たとえ、暴力には力でも、暴力に対して平和的に対するのであっても、それらは手段の違いだけであって、いわば売られた喧嘩を正面から受けとめ買っていることでは同じです。この場合、やり過ごすとか、静観するといったことは、選択肢にそもそも入っていないように見えます。それは、まるで、ゲーム感覚、あるいは中世の騎士道の一騎打ちの姿勢を見ているようです。沢山の死者がでたことに対してゲーム感覚という言葉は不謹慎かも知れませんが、勝負する、ということがまず前提で、逃げるというようなことは考えられない。この場合、勝負することには理由付けは必要ないでしょうが、逃げる場合には、「なぜそんなことするのか?」ということを言われることになるし、倫理的に正しくないと言われることになりそうです。それはヨーロッパというローカルな地域の特殊な考え方と私には見えることがあります。最初のところで少し触れた、テロに遭った近くで大々的なコンサートを開いて、こみよがしに人を集めて、間接的にテロの理不尽さを説いたり、屈しない姿勢をみせたり、当人たちは自身を鼓舞しているのでしょうが、それは他方では、相手側を挑発することでもあるでしょう。そのメリット、デメリットを衡量することよりも、自分たちの旗幟を鮮明にして主張するのを最優先する。この場合、別の視点でみれば不合理です。しかし、当人たちにはそんなことは考えていないし、報道でも、その人たちの姿勢を称揚している。そこに偏向が、私には見えてきます。そして、当人たちや報道は偏向とは思わず、普遍と思っている。というよりも、当たり前なので、それを意識などしていない。そこに、異文化に対する深層での拒絶があるように見えてしまいます。自分たちは絶対に正しくて、相手は絶対的な悪という、単純化された二元論。あからさまに口に出して言うわけではありませんが。このような場合、両者の間の対立は深まるばかりで、行き着くところまでいくしかないところに追い立てているように見えます。
 こんなことは、私が他人事として、これらの事件を見ているから、言えることかもしれません。

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