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2017年6月12日 (月)

人生とは自分の存在意味を消し去るためにある?

 『史記』の「五帝本記」は中国古代神話の国の始まりを記したものです。そこには、伝説の皇帝堯舜のエピソードが書かれています。伝説の皇帝堯がお忍びで市井に赴き、庶民の暮している姿を見て、自らの治世がうまくいっていけるかを確かめようとしました。そこで彼は街中で老人が、平穏な生活を謳歌しているのを見ます。老人は、皇帝なんているのか?と歌っていたといいます。皇帝を前にして失礼な話です。これは、中国古代の政治の理想ということとして司馬遷は語っていると考えられます。道教的な思想というのか。言ってみれば、理想の政治とは政治がなくなるということ。“万人の万人による闘争”が人というものであれば、それを治めるには政治が不可欠です。そういう闘争が起こらない世界を創り上げるのが政治の目的ということになるでしょう。もし、かりにその目標を達して、そういう世界が実現したとしたら、政治というのは必要なくなる。
 それは政治に限らず、人と人との関係において、人の理想の目標が、自身の存在意義を消失させてしまうものがあるといえるのではないでしょうか。実際に、その理想を粛然と受け入れている人々がいます。何か畏れ多いものと思われるかもしれませんが、ひとつの見方として、親が子を育てあげると、子は大人になって独立します。つまり、親を必要としなくなるわけです。とどのつまりは、親は子を大人に育てる。自分を必要としなくなるために子を育てる、ともいえるのではないでしょうか。
 こじつけかもしれなませんが、見方によっては、警察の目的は犯罪などおこらず人々が安心して暮らせる世の中を作ることとすれば、そうなった時に警察は必要なくなるわけです。また、真理を究明することが学問研究の理想だとすれば、もし真理に到達したときに学問は不要になるわけです。それは絵に描いた餅のようなもので、辿りつけない理想として、それが分かっていても、そこを目指して、眼の前の瑣事に足掻いているのが実情であるにしても、です。ある種、人の生き方には、そういうところがあるのではないでしょうか。この二つの例は職業でもあるわけです(経済や宗教にも同じことが言えるのではないでしょうか)が、このような究極には自己否定を目指すということ、これは人間にしかできないこと。決して、コンピュータには代替できないではない、と最近思うようになってきました。人生とは、自分の存在意味をなくすことを目指す。それは、まるでニヒリズムのように聞こえてしまいます。こんなことを若い人に言っても、理解できないでしょう。しかし、私のような年齢になって、人としてそれを心の奥底に持っているかどうかは、見ている地平が異なるものです。ということを言い切れる境地には至っていないのが、正直言って、寂しいのですが。
 私が、今、勤め先で従事している仕事は、集団の理想の姿になったのであれば必要のなくなるものであるはずです。そして、その実現を究極の目標として仕事をしているわけです。その理想を持っていなければ、私は保身をしていることになります。また、そういう理想をもてる仕事こそが、企業のなかで、コンピュータには、絶対に代替できないものであるはずです。技術でも、人事でも、営業でも、そういうところがあると思います。

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