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2017年6月10日 (土)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(1)

2017年3月 国立西洋美術館
Chasseriaupos  久しぶりに美術館をハシゴした。それは、いつもなら行かないような埼玉県の久喜の方まで出かけて、美術館でひととおり見終わって、時間が中途半端だったことと、美術館などにわざわざ出かけることも少なくなって(これは、私自身の気力も減退してきたことも原因している)、折角の機会なので、一時的に欲張ったためでもある。
 この企画展は、始まったばかりの時期でウィークデイでもあるし、多分空いているのではないかと見越したこともあるが、西洋美術館の人ごみは結構あったけれど、この展覧会の展示場所である地下への階段を降りると人影は少なくなった。展示作品数も、それほど多くなかったので、じっくりと作品を見ることができた。
 シャセリオーという名前は聞いたことがなく、まったく知らない人だったのでけれど、展覧会ポスターのこの女性の肖像を見て、興味をもちました。音楽でいうジャケ買いのようなものでした。で、どのような人なのかについては主催者の挨拶で簡単に紹介されているので、引用します。“今回の展覧会は、19世紀フランス・ロマン主義の異才テオドール・シャセリオー(1819~1856)の芸術を日本ではじめて本格的に紹介するものです。11歳でアングルに入門を許され、16歳でサロンにデビュー、やがて師の古典主義を離れ、ロマン主義の最後を飾るにふさわしい抒情と情熱を湛えた作品の数々を残して、1856年に37歳で急逝したシャセリオーはまさに時代を駆け抜けた才能でした。オリエンタリスムの画家にも数えられますが、カリブ海のイスパニョーラ島に生まれ、父親不在の寂しさや師との芸術的葛藤を抱えつつ、独自の道を探った彼自身が異邦的なるものを持ち、いずれの作品にも漂う甘く寂しいエキゾチシスムの香りが観る者の心に響きます。本展は日本で初めてシャセリオーの芸術を本格的に紹介するもので、油彩・水彩・素描・版画・資料など約90点によって画業全体を紹介し、断片を残すのみの会計検査院の壁画についても関連素描や記録写真などを通じて新たな光をあてます。さらに、シャセリオー芸術から決定的な影響を受けたギュスターヴ・モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌらの作品もあわせて展示し、ロマン主義から象徴主義への展開、そしてオリエンタリスムの系譜の中でその意義を再考します。”
 ここで、少し脱線してロマン主義のおさらいをしてみましょう。ロマン主義といっても絵画に限らず文学や音楽にもありますが、それはスタイルというよりも、個人の独自性や自我の欲求、主観など「個」を重視し、叙情的で感情的な表現を追求する考え方ということができると思います。その根底には、社会的抑圧に対する反発です。18世紀末から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパはフランス革命とナポレオン戦争によって大混乱となりました。これはアンシャン・レジームとしての王政という権威主義体制に対して虐げられた市民の側から解放を求める動きに呼応するものでもありました。したがって、芸術の世界では権威である古典主義に対抗するというスタンスをとり、激しい表現に傾く傾向にありました。フランスのロマン主義絵画の代表的な画家として一般にあげられるのはドラクロワやジェリコーといった人々です。
 そこで、シャセリオーの作品の印象は、あいさつでの紹介にある“ロマン主義の最後を飾るにふさわしい抒情と情熱を湛えた作品”というのに、どこかそぐわないのです。もう少し教科書的な記述をしますが、シャセリオーが活動していた1840~50年のころというのは、フランス革命に対する反動の時代で、復古王政の社会で革命のロマンのようなものは挫折し、文学の領域でもロマン主義のヴィクトル・ユーゴーから、自然主義的なスタンダールやゾラが主流となっていく時代で、絵画では、この後、リアリズムを標榜するギュスターヴ・クールベが台頭してくるといった状況だったと思います。
 そこで、何を言いたいのかというと、シャセリオーの作品には、比較するのは適切ではないのかもしれませんが、ドラクロワやジェリコーの作品にあるような情熱的な激しさとか、理想主義的な未来を切り開くといったような力強い躍動感のようなものは、あまり感じられず、むしろ静的で落ち着いた上品さとか洗練といった印象です。むしろ、彼の師匠であるアングルに近いのではないかと思われるところがあります。一方で、彼の同時代と言っていい、自然主義とかリアリズムというものは社会の底辺の虐げられた人々を、従来の芸術では美の対象ではないとしていたのを、ありのままに描くという物でもありました。つまり、従来の芸術からは美しくないものを対象としたわけです。こういう状況の中で、シャセリオーは従来からの美の側に立って作品を制作していたわけです。つまり、ロマン主義のおさらいの中であげたような権威に対する反抗ではなくて、権威の側に立っているようなスタンスです。シャセリオーの作品には力強さがあまり感じられず、むしろ逆に洗練の裏腹であるひ弱さのようなものを感じてしまった。慥かに、古典的表現にはない冒険のようなこともしているのですが、例えば、裸女の描写で腋毛を描いてみたりしているのですが、どこか些末な感じで、理想の追求の形骸化のような印象なのです。個人を重視し、抒情的で感情的な表現というロマン主義の行きかたも、それは社会変革という理想のために個人が主導していくものであったはずが、シャセリオーの場合には、その遠大な目標が消失してしまって、むしろ個人の抒情や感情に沈潜する、もっと言うと逃避するニュアンスに近寄っているように見えるのです。つまり、趣向の中身が空洞化したからこそ、表層の表現に集中することができて、その結果独り歩きして洗練していった。それが、後の世代の象徴主義的の画家たちに影響を与えることになったところではないかと思えるのです。
 ここで先に結論を言ってしまうことになるかもしれのせんが、シャセリオーという画家が時代に埋もれてしまったのは当然ではないかと思えるのです。ここで、再評価の動きがあって、ここでも回顧展が開かれているわけですが、それでも、この時代に、過渡期に、こういう画家もいたという程度のマイナー、言ってみればビック・ネームに入らないその他に一括される中で例示されるといった画家ではないかと思いました。
 貶めるような言い方をしてしまいましたが、作品を見ていくことにしましょう。展示の章立てに沿って見て行くことにします。

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