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2017年6月11日 (日)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(2)~1.アングルのアトリエからイタリア旅行まで

 シャセリオーの習作からデビューのころの初期作品です。
Chasseriauself  最初に展示されているのは「自画像」で、画家が16歳の時の作品です。全体として薄味という印象です。伝統的、つまり古典的な薄塗りの画面で、お上手というものです。16歳でこれだけ描けていたわけですから、彼の肖像画はたしかに上手いと思います。この後で肖像画のコーナーがありますが、通常の場合、画家の回顧展で肖像画がまとめて展示されているコーナーは概してつまらないのですが、今回の展覧会では、その肖像画のコーナーが全体の中でも充実していた感じで、この画家は肖像画家としては一流てあったことを認めるについては、吝かではありません。しかし、それは肖像画としてであって、絵画作品としてはどうか(肖像画と絵画は違うのか、と問われれば、答えにくいのですけれど)というと、薄味なのです。弱いのです。例えば、人物の目に力がない。モデルの人物がそうなのだと言われればそれまでなのです。しかし、この人物の両目の瞳の焦点が合っていないように見えます。少し斜視気味で、これはおそらく鏡で自身の姿を見て、そのままを描いていると思いますが、そこで、目がうつろになっているように見る者には映ります。また、そして、全体としてノッペリと色が塗られているような感じで、それぞれの色を塗った面というようになっている。例えば顔の陰影については、影の黒く塗ったとそれ以外の肌色の部分は、それぞれが彩色された面のようになっていて、影の段階が追いかけられていないようです。だから、顔の立体性を感じ難い結果となっています。これは、同時代の画家たちの描く肖像よりも、後世の例えば、ヴァロットンの描く表層的で平面的な画面に似ているところがあると思います。これは若描き故の稚拙によるものかもしれず、これを以ってシャセリオーの志向するところというのは早とちりになるでしょう。ただ、陰影を移ろい行くように細かく描写することによって、怒りとか笑いのようにハッキリと表われる感情ではない、微妙な内面や気分のようなものを表現するロマン主義の志向性が、この作品にはほとんど認められません。むしろ、外形を表面的になぞることに心を傾けているように見えます。だからこそ、立派な肖像画になり得るわけですが。
Chasseriaucopy  「16世紀スペイン女性の肖像の模写」です。模写ということで修業時代のもので出来栄えがよかったので本人も気に入って保管していたものでしょう。スペイン・バロック風の黒を基調として、色白の女性の肖像が浮かび上がってくる。その肌の色や柔らかな質感、叙背課の顔の雰囲気など、今回展示されているシャセリオーの作品の中で、とくに印象深い作品の一つです。しかし、模写です。画家のオリジナル創作ではないのです。ネルサンス時代のような工房で画家が職人のように制作していた時代ならまだしも、近代の、とくにロマン主義の画家として個人の主体性が制作のベースとされていた時代の画家です。シャセリオーは、そのシャセリオーの作品の中でも、(オリジナルよりも)模写が印象に残るというのは、おかしいかもしれません。それは、シャセリオーの作品の中では、とくに肖像画の印象が強く残っているせいもあるのですが、この頃の画家の作品制作の根幹ともいうべきテーマとそれをいかに画面にするかということよりも、モデルを立派に画面に定着させる肖像画や、お手本を忠実に写す模写といった作品の方がシャセリオーの場合、レベルが高いと思われるのです。そこにシャセリオーという画家の本質的かものを私は感じました。それは、手法の洗練とでもいいましょうか。例えば、この「16世紀スペイン女性の肖像の模写」に戻れば、スペイン・バロックのある種の荒々しさ、エル・グレコなどもそうですが、筆の勢いがそのまま残されて作品に近寄ってみると、荒っぽいほどのものかせ遠目に眺めると全体に調和していて荒さが目立たない、そういう秘められた情熱の迸りのようなところがあるのですが、このシャセリオーの作品は、近寄っても繊細で滑らかで、まるでルネサンス時代の滑らかなで筆致を残さない作品のようでした。つまり、表層の滑らかさ、優美さといったところに、シャセリオーの真骨頂があるのではないか。それは、いってみれば頽廃にいってしまいそうなところです。だからこそ、ギュスターヴ・モローのような人が、彼のそういう匂いょ嗅ぎ取って、彼のフォロワーとなっていったのではないか、思うのです。これは、先走りすぎました。
Chasseriaureturn  「放蕩息子の帰還」という作品。旧約聖書の有名なエピソードを題材にした、画家が16歳のときにサロンに初出品した作品ということです。もともと、古くから多くの画家が、たびたび作品にしてきた物語で、例えば、当時ルーブル美術館にあって、シャセリオーも見たと思われるリオネッロ・スパーダの作品と比べると、明らかに似ているところがあります。手垢のついたような題材なので、どうしてもどこか似てくるのは仕方がないのですが、父と子が向き合い、老いた父が上から子を見下ろすように慈悲をほどこすように抱き、子が下から仰ぎ見るように下手にでている二人のポーズや位置関係は似ています。しかし、シャセリオーの場合は、若書きゆえにしょうがないChasseriaureturn2 のかもしれませんが、スパーダに比べて散漫な印象です。そのひとつの要因は、子の表情が父親に向いているのではなくて、観客を向いている不自然さにあると思います。いわば、ポーズをとっているのがあからさまなのです。それによって、父と子の関係が画面で決まっていないのと、子の表情が画面の中で浮いてしまってちぐはぐな印象になっている。そして、全体として色調が抑え気味なのはいいのかもしれませんが、スパーダのように暗闇に父子二人だけが映って二人のドラマが際立っているのにたいして、シャセリオーはドラマのような注意の集中がおきていないので、日常のひとコマを演技のようにわざとらしくやっている程度にしか見えないところがあります。とはいっても、全体にはまとまっているし、ちゃんと形になっているので、題名をみれば、それと分かる作品になっている。この画家の、歴史画を見ていて、どの作品にも共通して感じられる薄味、あるいはもの足りなさというのが、この最初期の作品からある、ということです。
Chasseriaudiana  「アクタイオンに驚くディアナ」という作品です。このころから、シャセリオーは師であるアングルの影響から脱して独自の道を歩み始めるというころの作品ということです。アングルのようにキチッとした構図やデッサンが決まっているところが稀薄になっているのは分かります。例えば、右手の水浴しているニンフと中央の後姿のディアナとのバランスが釣り合っていないので、ディアナが主役として引き立っていない。細かいところをいえば、後姿のディアナの背中や尻の描く場合、アングルであれば、もっと魅力的に、そこだけを見ても十分鑑賞に値するような世界と尻を描いてみせるのだろうけれど。それと、ディアナに衣を渡しているニンフと、水浴しているニンフの二人は顔が横顔と斜め正面で顔が見えるけれど、表情がなくて彫像のようで、闖入者への驚きも、怒っているはずのディアナに対する態度のようなことが見えてこない。右上の水浴から上がるニンフたちは立像彫刻のようです。全体として人物に動きのない類型のようなところ。そして、遠近法で描かれているのですが、先ほど指摘したように水浴しているニンフとディアナはどっちが奥にいるのか分からないような曖昧さと、小さく描かれている鹿に変化させられたアクタイオンの影やその周囲が舞台の書き割りのように平面的なことから、画面全体が立体的な奥行きのある空間の広がりがかんじられず、書き割りのように見えてしまう。それらのことをあわせると、リアルな存在感のある風景と感じさせない。私の個人的な印象ですが、20世紀のシュルレアリスム画家ルネ・マグリットの描く人工的な世界の表面的な感じに近いのです。つまり、シャセリオーの描く世界というのは、表面が滑らかでピカピカだけれど、どこか人工的なつくりもののようなのです。
Chasseriaustone  「石碑にすがって泣く娘(思い出)」という作品をみると、石碑の重量感のなさや表面、あるいは背景の樹木の幹の表面の滑らかさは、マグリットの描き方とよく似ていると、私には見えるのです。

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