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2017年7月 6日 (木)

北村周一 フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前(3)

Kitamuraline1  「ライン消し・左」と「ライン消し・右」という一対の作品も、同じようなところがあります。薄く塗られた黒い墨の下に、違う種類の黒い塗料が描かれた形態が透けて見えています。ここでは、「瀝青」の表面の凸凹から生まれる影の代わりに、何重もの層に重ねられ透けて見ることのできる塗りの層があります。その層の透け方の変化が、時間をかけてみていると変化してくるわけです。それは、比喩的な言い方になりますが、ロスコが形にならない曖昧さを見出して、それをキャンバスに定着させようとしているプロセスであるのに対して、北村は曖昧をすでに持っていて、曖昧さは自明のことで、それをはっきりさせようとしている、と私には思えます。曖昧さをはっきりさせるという言い方は形容矛盾ですが、曖昧であるとは、形がないことでネガティブな言い方をせざるを得ません。おそらく、ロスコは、もともと表現というのは能動的な言い方で、ハッキリとした形をもっているものを表わす、たとえ抽象画であっても抽象的な形を描いていましたから、そういう形で表わしきれないものを見出したというのは、それだけで画期的であった、と言えると思います。これに対して、日本の絵画では余白といった描かれないものを表現として味わうこともあったことから、曖昧さということは認められていたのではないかと思います。北村にもそのベースはあると思います。そこでの課題は、それを西洋の伝統の上での絵画で描くということ。つまり、形を表現するという絵画に当てはめるていくということです。しかし、形が確立してしまえば曖昧ではなくなってしまいます。そこで、北村の絵画は形にならない形を模索するというものではないか、と私に思えてきたのです。例えば、この作品では、半透明で多層化された画面に透けて見える下層に描かれているものが、形はハッキリしていませんが、何かの描かれているだろうことは分かります。それは、他の作品では絵の具が積み上げられた物質だったりします。
Kitamurastone  「小石を繋ぐ-ⅰ」という作品です。ここまでモノトーンの作品ばかりピックアップしていますが、北村の作品はそういうものばかりではないことを断っておきます。私が、ここで感想を述べている北村の特徴をよく表われていると思うからです。「瀝青」や「ライン消し」が黒一色であるなら、この作品は白一色です。このほうが画面上の変化が見えやすくなっていると思います。ロスコとの違いに拘泥しているようですが、私の場合は北村の作品をロスコを手掛かりに見てきたので、どうしてもこうなってしまいます。これは、私という偏向した好みの人間の視点で語っていることです。ロスコの大きな特徴として、作品の巨大さがあります。壁のように立ちはだかって、見る者を圧倒します。ロスコは絵画を距離をおいて観察するように眺めるのではなくて、作品に取り囲まれるようにして空間に包まれるような体験をしてもらうことを求めていたようです。そして、ロスコの絵画の特徴として色彩があります。これは作品スケールとあいまって、見る者を空間に包み込むような気分にさせる機能を果たしていると思います。そして、眼を転じて北村の作品には、その両方がありません。この作品の大きさは縦横、それぞれ約30センチ前後で小さいのです。また、色彩はごらんの通り、白一色です。これでは、ロスコの作品のように空間をつくって、見る者を包み込むということは難しい。むしろ北村の作品は、ロスコが避けようとした、距離をおいて眺める作品になっていると思います。それは、北村の作品は画家が画面を計算して作っているように見えるからです。これに対して、ロスコの作品は、即興性がある偶然にできてしまったことを作品としているところがあると思います。絵の具を塗っていて、偶然できた画面を作品として提出する。全くの行き当たりばったりということはないのでしょうが。これに対して、北村の作品をみれば、連続模様のような菱形?が連続して、規則的に並んでいます。それも、絵の具を物質のようにして置いて積み上げています。このような作業を行き当たりばったりで偶然の結果できたとは到底考えられません。画家が、面倒な作業を、こうしようとして行った結果です。つまり、ロスコの場合とちがって、この作品では、縦横に並んでいる菱形のそれぞれについて、画家はこうしようとして作業をしているわけです。そこに偶然的な要素が入っていることはありますが、基本は画家の意図です。したがって、この作品の細部には画家の意図があるわけで、私のような作品を見る者の前に、意図が表われてきます。もちろん、私はそれを無視して、好きなように見ていいわけです。しかし、ロスコの作品のように偶然出来てしまったものに比べると、その細部に視線を誘導されるのです。例えば、同じような菱形が並んでいる、その菱形の差異を見ようとする。積み上げられた絵の具の形や高さの違いと、そこから生まれる影や白の見え方の差異といった細部です。そして、そのような細部の積み重ねが、先ほど述べましたが、北村の作品が曖昧さがすでにあることを前提にして、その曖昧であることを確固として提示するということではないと私は思います。ただし、だからといって北村のこの作品は、何かを表わそうといった意図が感じられません。いわば、この画面全体が余白のようなものに感じられます。それは、日本画であれば、何も描いていない余白が、画面全体の雰囲気とか空気感をつくったりしている。北村のこの作品は、その余白だけでできているように見えます。だから、重さとか、緊張感をあまり画面から感じ取れないのです。そこに在るのは、たんにあるということだけなのです。だから、私は、この画面をみていて、細部の差異をいちいち見て、こんなことがあるとか、ここが違っているといったことを見て喜々として戯れていました。ロスコの作品には、そのような遊戯的に楽しさがありません。

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