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2017年7月24日 (月)

ものづくりの追求って?異論?

 休日の昼に、たまたまテレビで日本の自画自賛を煽るような番組をやっているのを見ました。その内容の一部が、裁ち鋏をつくっている職人さんを取り上げて、海外の著名な服飾デザイナーが惚れ込んだということが取り上げられていました。日本の職人の熟練を称揚するような内容で、その職人さんは高齢になっていますが、よりよい鋏づくりに努めていて、ものづくりへの情熱と、その人のつくった鋏が海外で高く評価されているという話でした。
 それは、それで日本のものづくりとか職人魂といったことで自画自賛したくなるだろうし、そうしたい人はそれでいいのですが。それは、ある時期には過剰品質とか生産効率の悪さといったところで、散々批判の対象のなっていたことです。それが批判ではなく、称揚されるようになったのは、状況が変化したのか、というと、そうとも思えません。
 何を言いたいのかというと、その鋏をつくる職人さんを批判するつもりは全くありません。本人が好きでやっていることなのですから。でも、この鋏という規格品を製造し販売するということについて、考えてみると。この職人さんが作っている鋏というのは、現時点でかなり高い品質のはずです。それをより高い品質にすることに、どれだけメリットがあるのかを、ひとつの事業として考えてみると、どうなのでしょうか。職人さんが日夜努力を続けて、少しずつ品質が向上していくとして、その向上した品質をうけとる消費者の側は、それをメリットとして受け取ることがあるのかということです。そして、それだけの労力がかかっているわけですから、それに見合うもの、例えば、品質が向上したことで鋏の価格を上げることができるということができるのか。それがなければ、職人さんが苦労しても、その苦労に見合う対価を受け取れないことになります。それは、外形的にはただ働きということになり、いわばブラック企業です。それを事業として許しているということになります。もし、事業としての合理性を考えれば、よりよい製品をつくるという向上のための努力という方向を、より多くの製品をつくる方向に転換させれば、製造数が増えるので、生産効率は向上し、そり努力に見合う見返りを受ける可能性は高くなるでしょう。また、高い品質の鋏が多くのひとに使われることになるというメリットがあります。
 日本の職人仕事とか、熟練というのは、求道的な精神性のような視線でみられて称揚される傾向があります。例えば、ゴールのない精進というようなあいまいさです。この鋏の場合では、工業製品であれば想定されたスペックがあるとして、それを満たす、つまり100%の完成度に満足することなく、スペック以上のもの、切れ味とか使い易さといったものを120%を目指してしまう。それは、作っている当人は、やっているうちに熱中してしまうでしょうし、そういう場合は好きでやっているのでしょうから、本人は幸せなのかもしれません。しかし、その職人さんも生活のために仕事をしているのであって、その努力をしても収入が増えないのであれば、その家族は、得られるはずの収入を得られないことになるわけです。別に、この職人さんを批判しているわけではありませんが、そういうことを踏まえて、それを周囲で眺めている人は、日本のものづくりということで、無条件に称揚できるのか、私には疑問が残り、テレビを眺めていて釈然としませんでした。かりに、これは個人の職人さんであるわけですが、これが多くの従業員を抱えたメーカーの企業で同じような、利益にならないようなよりよいものを追求する、いわば過剰品質を求めるという場合であれば、手放しで称揚されるでしょうか。個人と企業は違うと言われるかもしれませんが。それで、御マンマを食べているという点では同じではないかと思います。

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