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2017年7月10日 (月)

専門家の枠組みが変わって、従来の専門家はAIに取って替わられる?

 この数日の九州の豪雨災害とか北朝鮮のミサイルといったことなど、その報道で専門家のコメントをみていると、全く参考にならないと考えさせられました。私の誤解かもしれませんが、専門家というものをどのように捉えるかということについて、報道をみていて私が感じるのと、報道している側やそこでコメントをしている専門家当人との間で大きな齟齬があることに気づいた。私の捉えていることが、ひとりよがりなのかもしれませんが。
 実際のところ、例えば、九州の豪雨災害というのは全容はどうなのか、それは従来とどう違うのか、それで従来の災害対策を考え直すようなことなのか、つまり、評価とか意味づけということを知りたいとおもうわけです。しかし、そこでコメントしている専門家という人は、今回の豪雨は異常だとか、しかし、どうしてそんな異常なことが起こったのかというメカニズムの説明はなくて、こんな量の雨が一気に降ったから異常だという結果と原因を混同した説明しかなかったり。地盤が特殊だったという説明、そんな特殊な地盤であることが予め分かっていて、従来の対策は適切だったのかとか、許容量はどのくらいだったのか、他に同じような危険のあるところはどうなのか説明もなかったり、といったように毒にも薬にもならないように無駄話しか聞けないという印象でした。
 北朝鮮のミサイルに対しての専門家という人々のコメントは、ミサイル技術の教科書の概説を丸暗記したような言葉しかなくて、実際のミサイルの脅威について、例えば実験で成功しても、それを現実的な軍備として機能するのか、そのためには量産とかメンテナンスとか人員といった運営や、それを支えるロジスティックスなんかを整備できているのか、できていなければ整備するのにどのくらいかかるのか。ミサイルという兵器の物体に限るのであれば、最低限その程度のことを明らかにしてもらえなければ、現実の威力が分からないでしょう。また、兵力というのは外交とか国の戦略の一環ですから、それによってどのような変化があって、それがこちらにとってどの程度の現実の脅威であるかが想像できるのでしょうけれど、そういう評価とか意味付けのようなことは、いわゆる専門家の人は北朝鮮情勢ならそれに限って教科書の説明の丸暗記とか、その程度の説明しか行われない。それなら、記者の書いた記事やニュースキャスターが台本を読み上げるのと変わらないものです。しかも、専門家の人の話し法はへたなので聞きにくく、いってれば時間の無駄です。
ほとんどというよりも、私の聞いた限り全部そうでした。
 いわゆる専門家の人というのは、大学なんかの体制で学部とかいった学問の分野で仕切られた昔からの枠組みのなかで知識や経験を得てきた人ということなのではないかと思います。かつて丸山真男がタコツボといいましたが、その枠組みのなかでの知識や経験だけを積み重ねて、枠組み自体の有効性とか、それ以外のところには知識や経験は及んでいない。いまどきこんな人いないだろうと思っていたら、ニュースなんかに出てくる専門家の話しているのを聞いていると、まさにそんな感じです。話していることが教科書の丸暗記といったのは、従来からの蓄積された知識データをあげて、災害であれば、今回は、その蓄積との差異を話すことばかりだからです。
 でも、こういうのであれば、今、巷で話題の、ディープラーニングするAIにやってもらった方が、ずっと深掘りができて正確で精度の高いものがでてくると思います。こういうのっていうのは、限られた枠組みのなかでデータを蓄積して、その解析と、新たな事態においては、その差異を分析するというのですから、パターンの繰り返しです。つまり、将棋と同じです。要は、パターンが複雑であるということだけです。だから、これから数年かすれば、いま大学にたくさんいる専門家はコンピュータに取って替わられてもおかしくないということだと思います。私には、それは、人がわざわざ頭をひねって労力をかける意味があるのかと思えるのです。おそらく、真摯な企業の現場であれば、生産性が低く、価値創造もできないものは無駄と見なされてしまう、そんな程度ではないかと思うのです。
 おそらく、専門家というものの意味合いが、このような大学なんかの枠組みとは異なる基準で捉えられるものになっているのではないかと思います。前述の災害や北朝鮮のミサイルに関して私が専門家から知りたいというのは、実際の場で、どう対処したら良いのかを考えために必要なこと、情報の切り分けとか評価といったようなことです。それは、実践の必要に応えて枠組みを新たに創造するようなことです。
 これは、報道に限らず、ビジネスの場でも、実際の企業現場でもそうです。例えば、法律行為は弁護士が専門家ということになっていますが、取引の契約書の吟味といった形式的なことでも、法的リスクをあげることができない人が大多数なのです。一般的には、弁護士は専門家だから、企業の従業員なんかよりずっとくわしいと思われています。しかし、私の経験です、有名な大手法律事務所の弁護士で、書類を見てもらって、問題ないと言われたものについて、後で、こういう時はどうすればいいのでしょうかと質問すると、それは問題ですという答えが返ってきて、そういう後付けで問題だといわれたことが数件、極めつけは、それについて株主総会で株主から追求されるリスクをきいたところ会社法の常識では考えられないような素っ頓狂な回答があって驚きました。その後は、懲りたので、この後は書類の吟味を依頼する前に疑問点をさきにあげておくことにしました。それにはちゃんと答えてくれます。しかし、私の基準では専門家というのは、そういう疑問点は私などが思わぬところにあることを指摘してくれるものではないかと思っていました。
 おそらく、そういうことは、特に企業では、日本の場合、かつては現場で問題提起して解決していたのではないかと思えるのです。多分、従来の枠組みのなかでパターンとおりの繰り返しという仕事、マニュアル通りでできてしまう仕事であれば、AIやロボットに取って替わられる運命にあるのではないかと思います。

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