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2017年7月12日 (水)

海外へは歳をとってから?

 恥ずかしながら、私は50歳をすぎて、初めてパスポートを取得しました。いまから30年以上前、私が大学を卒業するころから卒業旅行が一般化し、その後20代でバブル景気を通り過ぎ、若い頃に海外旅行に行ったり、あるいは企業に就職した人で、若いころに海外へ出張や赴任という人が沢山いました。私は、あんまりそういうのには行きたくなくて、務めた会社も海外にそれほど進出していないところだったので、日本の外に出ることはないと思っていました。出たいとなどとは思ってもいませんでしたし。
 しかし、会社の仕事の関係で近隣の国ですが、出かけなくてはならなくなって、若い人には嗤われそうですが、50の手習いのようですが、初老に近いオッサン、というよりジイサンがおっかなびっくりで、とにかく飛行機に乗り、入管を通り、わずか数日ですが行ってきました。それが数年前。それから、何度か、同じところですが、行ってくるようになりました。
 そして、行くたびに、かなり考えさせられて帰ってきます。私が行くのは、仕事の出張なので、観光要素はなく、ホテルも日本語は通じる場合があるとか、食事も現地の会社の人と似たようなところに行ったり、と当初はかなり覚束なくて不安も伴いました(今でも本質は変わっていません)。それだけに、些細な身体感覚の実感で、簡単に言うと異文化を突きつけられています。それが我が身に振り返って、自分の来し方を、結構考えさせられることが、毎回、かなりあります。
 昨日の投稿で、会計に結びつけたところを少し書きましたが、その関連でも、中国の労働者の賃金に対する考え方、人事評価の考え方、例えば、日本では当たり前の定期昇給は中国ではおかしなことというのは、日本でもビジネス書にも書かれていますが、それがどうしてなのかというのは、人々の日常の動きを見て初めて合点がいくもので(とはいっても100%納得しているわけではありませんが)、それは振り返って考えれば、どうして自分は定期昇給を当たり前として受け容れることができたのだろうかと問いに直面させられることでもありました。
 それは、そんなお題目のようなことだけでなく、卑近なところで、風呂にはいることとか、空調の感覚とか、まで。
 そして、それらを考えるようなことができるのは、私の場合、それらのことについて情報とか知識の蓄積がある程度あって、視点を自分で多少は自覚していたからこそ気がつくことができたと思います。もし、これが20代の若い頃のことであれば、新鮮さは感じたかもしれませんが、我が身に問いかけるところまでは出来なかった、多分、そのためのツールも素材も持ち合わせていなかったのではないかと思いました。
 だから、かなり偏見かもしれませんが、海外へ行くのは、思考や感性が柔軟と言われている若いころよりも、ある程度、考えたり感じたりする方法が確立している年寄りになってからの方が発見が多いのではないか。

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コメント

若いときには若いときなりに、歳をとれば歳をとったなりの海外の楽しみ方があるように思います。
若いときは無茶が出来ますし、歳をとれば経済的なゆとりも出来ますからじっくりとその国を見ることが出来ます。
一番肝心なのは思い切りのような気がします。
出かけることもいろいろ経験することも。

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