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2017年7月18日 (火)

アドルフ・ヴェネフリ展 二萬五千頁の王国(4)~第3章 地理と代数のノート

 Walflisecond 作品は絵だけじゃなくて、文字も数字も加わってきます。この前に作品でもレタリングした書かれた文字が構成要素としてありましたが、ここでは絵の部分ではなくて、同格になるほど画面にびっちりと書かれています。それだけでなく、音符とも幾何学パターンともつかないものが多数入り乱れるように画面に溢れるようになっています。
 「二冊目の大きな本=行進曲」という作品では、色鉛筆は用いられず白黒ですが、音符と数字の0が大きく画面にフィーチャーされて、画面全体にリズムを作っています。これが、画面構成の骨格を作っています。
 「小鳥=揺りかご.田舎の=警察官.聖アドルフⅡ世., 1866年, 不幸な災=難」では、横長の長方形の画面の形態に当てはめられるように、まるで楽譜のような文様が、楽譜だからというわけではありませんが、音楽的な画面のリズムを作り出すような構成を作っています。こうなってくると、何かを、対象となる事物を写すということが描くということではなくて、そういうことと切り離されたかたちで表現ということが行われている。そこに、この人のユニークなところがあると思います。これを、美術教育を受けなかったとか、苛酷な環境にいたとか、精神障害とかいったようなストーリーを当てはめて、特殊なものだからとして捉えるものか、作品自体がユニークなので、その作品で見ていくかは見る人の志向によるものでしょうが、そういうストーリーに収斂させて、納得して終わりというというものに作品をおさめてしまうのは、もったいない気がします。
 私の好みでいうと、ここまでが展示の核心部で、この後はコラージュが加わったり、画面がこなれていくように見えますが、その反面、これまで述べてきたような特徴が薄れていきます。敢えて言ってしまえば、手抜きのテクニックを覚えた、といえなくもありません。そういうこともあって、もう少し、ここで、書き洩れたことを少し書いていきたいと思います。細かいことかもしれませんが、いくつかの点を、脈絡なくアトランダムに気がついた点としてあげていきたいと思います。まず、ヴェルフリの鉛筆で引かれた線についてです。彼の鉛筆の線についは、何度もふれましたが、具体的な点で、書き洩れている点があるので、追加の意味合いで少し述べたいと思います。これまで見てきたように、彼の作品は一部の隙もないほどにぎっしりと描きこまれていますが、それらはすべて鉛筆による線描です。色鉛筆で彩色されている場合でも、油絵のように下絵で引かれた線の上に絵の具を重ねて、線を見えないようにしてしまう(描写する対象の現実には線というものが実体として存在しないという考え方ですね)のとは反対です。むしろ彩色は塗り絵のようなものなので、画面に何が描かれているのかという形は線による輪郭で成り立っています。したがって、彼の作品で溢れんばかり描かれているのは、実際には線なのです。つまり、画面の中に宇宙とか世界を創造するということで、そこにおいて線が構成要素としてあるということで、線に存在の意味がある、そういう世界なわけです。そして、世界の輪郭をつくる構成要素という特別な意味があるということだろうと思います。それで、その特別であるというその線について、ヴェルフリは、たぶん柔らかい芯の鉛筆(日本の鉛筆であればBとか)で太い線を引いています。しかもハッキリと。これは、輪郭を形づくるという役割を果たしていることから、その役割の線を差別化して、一律に引いているためではないかと思います。おそらく、色鉛筆の場合も含めて鉛筆ででも塗るということが施してあるところも、それは面として塗られているのではなくて、線が集まった結果として面に塗られている。色塗りと言っても線を引いたのが集まったものになっている。従って、伝統的なアカデミックな絵画のデッサンのような面で捉えて、線を消そうとする発想とは異質な発想で描かれていると思います。だからこそ、デッサンの場合のような線を使い分けして、細い線から太い線、あるいは濃淡とか、線を布でこすってぼかしてみたりするような緻密な使い分けをしていません。ヴェルフリの作品は細かく描きこんでありますが、決して細密でも緻密でもありません。それゆえに、沢山のものをぎっしり詰め込んだような画面のはずなのに、渾沌とした感じではなく、秩序があって静かなのです。
 Walflikotori そして、また、画面上の宇宙、または世界が線で構成されているのは絵の部分だけに限られることではなくて、線で書かれた文字や音符も例外ではないわけで、画面、というより、紙の上で引かれた線によって宇宙、つまり、コスモス、ということは秩序、には、絵、文字、音符がひとしく含まれている、とみることができると思います。だから、紙に文字が書かれているのは、そこに言葉が綴られていることはもちろんですが、文字という線で形成された形態は絵と同じように形態としてみることができると考えていいわけです。

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