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2017年7月 5日 (水)

北村周一 フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前(2)

Kitamurarekisei1  「瀝青.左」と「瀝青・右」という2010年の作品です。二作ペアで一対として並べてありました。この作品は展覧会場の中でも奥の方に展示されていて、私が会場でずっと北村の作品を見ていて、この作品にいたって漸く作品をみる手掛かりを掴めたと思えた作品です。その手掛かりというのが、この作品をみていて、アメリカ抽象表現主義の画家マーク・ロスコに似ていると思えたことです。ロスコの抽象画というのは、赤、青、オレンジ色、緑、黄色などに鮮やかな色の塊が二つか三つ、横長に縦に積み重なる様は、まるで色を異にかる光を背後から受けた雲か霧の集積のようにも見えて、キャンバスの縁をわずかに残して画面いっぱいに茫漠と漂っているスタイルです。そこに見られる特徴としては、左右対称の構図、矩形キャンバスの内部に矩形が繰り返されるという安定感であり、そこに色彩とフォーマットの無限のヴァリエーションが展開されることでしょうか。しかし何と言っても、特筆されなければならないのは、画面が一気に巨大化して行ったことです。小さな絵とは違って、背丈を超える大きな絵は見る者をその内部に包み込むかのような感覚を与えます。作品画像を比べて見てもらうとよく分かりますが、色彩こそ違え北村もロスコも外面いっぱいに単色の絵の具で塗りつぶしている点で共通しています。その両者の違いのひとつは作品の大きさです。ロスコの作品は往々にして壁のような巨大で、見る人を包み込んでしまうところがあります。しかし、北村の作品は約1.5m×0.9mの大きさで、見る人を包み込むというより、見る人と正面から向き合うという感じです。そこで、作品を見ている私は、ロスコの場合よりも距離をおいて冷静に観察するような視線でよく観るという態度をとることになります。そのような見方で視線に捉えられるのは、細部です。
Kitamurarekisei2  このことを覚えておいていただいて、唐突ですが、話題を変えます。ロスコの作品の特徴的な魅力について、その大きさ以外に次のようなことをあげることができます。ロスコの単に絵の具が塗られただけのような画面は、絵の具の塗りが全般に薄く、地肌が透けて見えるほど薄いところもあれば、しっかり塗りつぶされたところもあるという調子で、無地と見えて濃淡にムラがあります。無地と見えて濃淡にムラがあります。このような濃淡のムラという、それまでの絵画の常識では意識的に排斥されきた人間の手の痕を、一貫して尊重しているのです。ここに、ロスコの絵画が抽象的であっても、決して冷たくならず、暖かみと安らぎが感じられる要因の一つがあると思います。そして、濃淡だけでなく色彩の面でも、しばしば似たような色へと段階的に微妙に変化していくような、中間的な、はっきりと色の名前を言えないような色合いです。何色ということを決めかねるような色彩は、自然の光のもとでは天気や時刻によって差し込んでくる光が変化し、それにつれて色調の印象が変容していく、そういう静かなドラマを生んでいきます。こうして画面の表面全体がドラマの場となります。そして二次元的空間の中でポイントごとにたえずニュアンスが変化してやまないのみならず、外から訪れる光もまた動いてやまない。時間的な変化が加わってくるのです。だから、ロスコの絵画は時間を内包しているというわけで、ずっと作品につつまれて時間を過ごしていても、飽きることがないのです。
 Rothko_big この画面では分かり難いかもしれませんが、北村の「瀝青」にも濃淡もあり、手の痕もあります。その上、北村の作品はロスコのような薄塗りではなく、厚く絵の具が盛られていて、画面の表面にはっきりと凹凸が作られています。画像では分かり難いかもしれませんが、北村の作品は表面がゴツゴツしています。ロスコの作品の表面の滑らかさは物静かで柔らかく優しげなところは、細部に気付き難いところがあります。しかし、あるポイントの前後を楽しみ、ムラによって生み出される表面の変化を視線を移していくことで認識して、その静かな余韻を楽しむ。また、一ヶ所にポイントを絞ってじっと見ていると細部が見えてきます。それが見えてくると、薄塗りの滑らかな表面に視線を滑らせていくことが分かる変化に身を任せるという楽しみ方ができます。何か、北村ではなくロスコのことばかり語ってしまっていますが、現時点では、私自身が北村の作品の楽しさを語る言葉を見つけられないでいるので、ロスコとの比較で相対的な語り方になってしまっています。で、話を戻して、ロスコに比べると北村の場合には、ロスコのような滑らかさや柔らかさの代わりに、表面は凸凹でゴツゴツしているので、視線の滑らかな移動はし難くなっています。その代わりに、視線を止めて、一点を凝視するように誘っています。そこでは、表面の凸凹から生み出される影が表面に変化を作り出していきます。それは、少しでも視線を変えると影は変化し、その影の変化は色合いやグラデーションの見え方を変化させていきます。その変化はロスコが滑らかな、音楽で言えばメロディのように流れるものであるのに対して、北村の場合には、時には流れがストップしたり、跳躍したりするような意外性があって、視線に運動を強いる変拍子のリズムのようなところが違います。それゆえに、ロスコの作品のような観る人を沈潜させるような瞑想的というよりも、観る者の視線を裏切って驚かすようなダイナミックなところがあると思います。それは、ロスコとは違うものの対象として突き放してみるというよりも、作品に入り込んで直接体験するような、作品への対し方をすることができます。だから、この「瀝青」という作品に対しては、何かが描かれているとか、意味を読み取るとかいったことではなくて、作品の前で時間を過ごして、体験するというところがあると思います。

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