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2017年8月 8日 (火)

endless 山田正亮の絵画(5)~Work C 1960~1969

 いよいよ、圧巻のストライプの洪水ともいえる展示です。山田はストライプの画家といわれてきたと説明されていたようですが、そんな生やさしいものではなくて、ストライプしかない。よくまあ、飽きもせず…。もちろん、そこに並べられた多数の作品は、それぞれに何らかの工夫があったり、作品として個性を備えているのでしょうが、しかし、広い展示室、その部屋に連なる廊下や小さな展示室、そこに水平な直線の帯に色が塗り分けられたキャンバスだけが圧倒的な物量で並べられています。多少の例外はあったのかもしれませんが、10年近い間、山田はストライプの作品をもっぱら、いやそれしか描かなかった。それは、くどいとかしつこいとか執念とか憑かれたとか、様々な形容ができるでしょうが、そういう言い方には狂気を帯びた熱狂というのか、ある種の熱さとか情熱といった、異常な盛り上がりのようなニュアンスがあると思いますが、そんなものが10年近く続くはずがない。そういうところに山田の異常さのようなことを想像することも可能です。だからこそ圧倒されるのです。
Yamada2017workc180  展覧会での解説では、Still Lifeで解体していたのがWork Bで一応の達成を果たしたあと、このWork Cから組立がはじまると説明され、このストライプということについて解説されていました。長くなりますが以下に引用します。
 山田正亮の特にWorkの系列のほとんどの部分にあって、描く出発点においてあらかじめ描くべき形についての枠組みが決められていたという点はあらためて注目に値しよう。─中略─あらかじめやることの大枠は決められており、その枠組みの名かで安心して、ないしは窮屈に堪えつつかれは描き続ける。絵画という形式がすでにしてかなり大きな拘束である。それに加え山田正亮は描かれるべき図柄、イメージをあらかじめ確定してしまうという、さらに大きな拘束を設けたのである。絵画を構築する全体プランがあらかじめ他人事のように設定される。デッサンの放棄、決まった枠組みに絵の具を塗る塗り絵行為とも批判されかねず、「単に塗られた色面としての弱さ」を露呈しかねないこの転換。しかしおそらくそのことによって、むしろかれの絵画の生産性は増大したのではないか。ゲームの規則の明確化、あるいは単純化により、かえってゲームの内実は充実していく。同じ規則の上に展開される微細な差異の集積。それらは塗られる色彩の組み合わせの選択だけにとどまることではなく、キャンバスの目の粗密の洗濯、画面サイズや形状の選択、下地の作り方の違い、グレージングの程度などなどと非常に多岐にわたる。同じストライプのルールのもとであっても、素人目からすれば些細とも思われるこのようなメチエの仕分けの結果により、現にそれぞれの個性と唯一性をもったストライプ作品が生まれる。そうでなければこんなに数を描く必要もないのだ。─中略─一見ただの多色による縞模様だが、少し近寄ってよく見てみると、一本一本の線はとても線とはいえないような、爬行するあぜ道然とした存在感を持ち、息をしているというか、喘ぎつつ進んでいるような紆余曲折を見せている。細部の各層、各色線の逡巡、表出的筆触、絵の具のたれ、ふくらみ、たまり、色線相互の侵食、かすれと透過、薄溶きの褐色の絵の具層の上かけのよる色彩バランスの調整、塗りの隙間からわずかに覗く高明度の下層がひき起こす光の輝き。色彩間の闘争。そこには整然とした知的な営為ではなく、荒れ地を匍匐前進するかのようなとんでもない労働の痕跡がある。真の反復の持続は微細な差異の集積を要求する。画家は、前置きしてのタスクを設定しそこに準拠しつつ、絵画と対話をかさね、絵に尋ねつつ、なんとかして一回性の出来事を紡ぎ続けようとする。
 この説明について、途中を省略しているところもありますが、山田はWork Cのストライプについて、あらかじめ計画をたてて、まるで設計図をもとに製作する労働のように、規格品だからこそ大量生産できるし、量があるから個々の作品の差異を見ることができる。商品としての絵画には、もともと。そのようなところがあり、山田はそういう絵画の面を拡大してみせた。そこに、絵画のありかたを考え直した山田の作品のスタンスのユニークさがあるということでしょうか。部分的に納得できるところがあるし、山田の沢山並べられた作品を前にすると途方にくれてしまうので、このようなガイドがあることはありがたいと思うので、長くなっていますが引用しました。でも、これは展覧会で作品をみている側にとっての作品を見る魅力とか、作品に惹かれるところという視点がありません。研究者とか批評家のひとが作家論を組み立てているようで、この人は、なぜ山田の作品を見て、山田という画家のことを考えているのかという、この説明している人が見えてきません。それは、この引用に対する批判ではなくて、そういう点で参照する程度のものとして引用したということです。そのことを前提にすれば、この引用で触れられていることは参考として使えます。前置きが長くなりました。
 前のWork Bところで、私は山田の作品について、描かれた形をつかった駄洒落のような構成で画面を作っているという言い方をしたことがあります。その前提にあるのは、何か、例えば事物しか物体といった対象を描くというのではなくて、画面に描かれたものがあって、それで作品が出来上がっていくという出来上がり方です。それは、何かを描く絵画ととうことから少し離れて、例えば駄洒落という譬えを用いたからではないですが、言葉遊びのようなこととして考えてみていただいたほうが分かり易いと思います。橋を意味する「はし」という言葉は、しかし、単に言葉の音を聞いただけだけでは「端」という意味にもとれます。だから、一休さんのとんち話で、「橋をわたってはいけない」と言われて、一休さんはどうどうと橋の真ん中を通過したのです。そのとき「はし」という言葉は、その言葉の単独の意味から切り離されました。その意味を規定しているのはその言葉が置かれている文であり、その文が置かれている文脈なのです。一休さんは、言葉を文や文脈から切り離して、別の文脈に置き換えることで別の意味を取り替えてしまいました。ふつうは、そういう言葉─文─文脈で意味が決まってくるということは当然のこととして意識して考えられることはありません。だから一休さんの行為は頓知といわれるわけです。で、何が言いたいのかというと、山田の絵画作品では、絵画で言う当たり前の言葉─文─文脈が実は、山田の作品では、一休さんの頓知のように動かされたり取り替えられたりしたものではないかということなのです。ただし念のために言っておくと、これは山田という画家がそういう考え方で絵画を制作したということではありません。いわゆる作家論を論ずるつもりは毛頭ありません。だから引用した解説の批判ではなくて、これは私にとっての山田のストライプ作品の魅力をストーリーにしようとしているだけです。だから、事実と反することはあると思います。私は、作品を見て、このように楽しんだということで、これは引用した解説には、おそらく最初から顧慮されていなかったことです。
Yamada2017workc073  回りくどい書き方になっていて、何を言いたいのか分からないと仰る方も多いと思いますが、多分、山田の作品の魅力のユニーさというのが、従来の絵画の魅力を語るというのとは位相が異なっていると思うから、どうしても奥歯にものの挟まったような表現になってしまうのです。例えば、ここで展示されている作品について、それなりにコメントするもできます。この二つ並んだWORK C.73(左側)とWORK C.77(右側)は、両方とも縦長の掛け軸のような画面で、水平なストライプが、左端から右端へ平行に何度も引かれています。個々の水平のストライプは筆で引かれた線もしくは面であっても、それが繰り返されて層を形づくって、結果的に縦長の面を形成するまでになっています。かといってすべての線が横に平行に走っているわけでなく、C.77では中央部分でやや右下がりになっているいるようなところもあります。それだからというわけではありませんが、ストライプは機械的ではなくて、それぞれの線の太さや勢いなどが違っていることから、表情やニュアンスを想像することができます。それに着目すると、単純な画面でありながら簡単には全体を把握できません。個々のストライプは上下に隣り合う色彩との境目が多様な質感や表情を見分けられることができます。また、ところどころに絵の具が残っていたり、絵の具がストライプの水平の向きを断ち切るように垂直方向に垂れ流れてきています。それがアクセントとなって水平のリズムに対する垂直なリズムを作り出して、画面を水平と垂直が交錯してポリリズムのような効果を作っています。そして、2作品が並べて展示されていましたが、サイズが一致しているので、ストライプも一致するかのような錯覚に陥り、そこで、色彩が異なっているので、対照的に見ることができます。C.73は赤、深緑、紺色、青、水色、黒、グレー、白といった色で構成されているのに対して、C.77は黄、草緑、青、水色、黒、グレー、白で構成されています。C.73が赤と緑と青と白の鮮やかな対比によって明るい海と陽光を感じさせるのに対して、C.77は湿潤で温暖な日本的な気候風土を感じさせるところがあります。
 このようにひとつの作品について述べることは出来ますが、ここでC.73あるいはC.77についての語りは、それだけを語っているのではなくて、山田がストライプの作品を沢山制作していて、その作品を見ているということが前提となって、ここでC.73あるいはC.77について書いているということができます。裏を返すと、C.73あるいはC.77について語ろうとすると、その作品だけのことに限って語るということは難しいのです。この作品のことを語ろうとして、いつのまにか山田のストライプ作品の概略を語ってしまうことになるし、この作品の特徴を語ろうとすると、山田のストライプ作品のなかで、他の作品と比べて差異を語ることになってしまうのです。以前に、山田の個々の作品は完結していなくて開かれていると言ったのは、こういうことです。山田の作品だけでなく制作のさいにつけていたノートも展示されていましたが、制作する際にも、この前は、こういうストライブ構成にしたから、今度はこうしようというように考えられていたことが分かります。つまり、先行する作品との差異から、新たな作品が構想されていったということです。そこには、個々の何かを表現して、個々に制作されるというのとはまったく異質な制作動機があるといっていいと思います。強いて言えば、山田の場合にはストライプによって画面を構成するということが、その場合の表現すべきものということになると思います。さきほど一休さんの譬えで、言葉─文─文脈ということをいいましたが、これを絵画にあてはめると、表現─テクスト(個々の作品)─コンテクストと図式に置き換えることができると思います。そこでも普通に絵画を見るときには、テクストをみているのですが、山田の場合にはコンテクストを見ているのではないかと思うのです。あるいは、テクストを見ていてコンテクストを見てしまう。
Yamada2017workc092_2  ここまでは、事実の解釈ということですか、この先は、この解釈を発展させた個人的妄想です。さきほどストーリーとも言いましたが、純粋に私の主観的な感じ方なので、事実とか真実とかいったものとは、そもそも関係なく語っているという前提で、お付き合い願います。何を言いたいかというと、そのように山田の作品を見ることにどのような意味があるのか、ということです。おそらく近代西欧の文化、とくに芸術というのは単純な繰り返しを嫌います。作品の個性とかオリジナリティといったことを強調しますし、パターンの繰り返しをマリネリといって批判するのが常です。その根底には、同じパターンを繰り返すことへの嫌悪があるのではないかと思います。それを思想化したのがニーチェの「永劫回帰」ということでしょうか。同じ毎日をずっと繰り返し続けていくことは地獄のような苦しみだというのです。また、日常生活でも仕事をして生活をすることよりもヴァカンスという、いってみれば繰り返しから抜け出す非日常を大切にしています。繰り返しのなかでも、たとえば、仕事が端的にそうですが、その中でも単純作業と繰り返しの中でも多少の変化をつけられる作業と比べると、単純作業の方が見下されます。後者の場合にはクリエイティブな要素があるとかいって、高級なイメージをもたれています。そういう中で、この展示室のような単調な繰り返しが際限なく並んでいる山田の作品の場合には、そういう近代西欧の文化では、作品とは認められない可能性もあると思います。あるいは、ポップアートのような大量生産の画一性の批判とかいったコンセプトを、そういう文化の人が理解できるような理屈を添付してあげないといけないのかもしれません。そういう点でみれば、山田の作品について、私が見たコンセプトということで繰り返すということは、芸術とかアートといった概念枠からずれていってしまう可能性を多分に秘めていると思います。
 しかし、一方で、たとえば音楽と言っていいのか分かりませんが、ダンスを単純なリズムでステップを踏んで身体を動かしている時に、はまってくると、伴奏の音楽が動向とか関係なくなって、その単純なリズムの繰り返しがここちよくて、それで熱くなっていくことがあります。サンバなんかは、ほとんどリズムだけになるし、阿波踊りなんかもそうです。だから繰り返しは身体的なここちよさに直結するようそは確かにあるのです。前のところで、山田の絵画は、何かを表現するとか言うよりも、筆をもった腕を動かすという身体的に行為がまずあって、その行為、つまり運動の結果として作品が出来上がるということを書きましたが、まさに、ダンスのような身体の運動と、山田の描くということが重なるのではないかと思うのです。その反映として、生まれた結果がストライプというコンセプトではないかと思うのです。
そして、さらに妄想をエスカレートさせます。そういう繰り返しを、私たちは、実はダンスのような特殊なところでなく、日常的に、行なっています。それは、日常の生活パターンです。朝起きて、三度のご飯を食べて、仕事をして、夜寝るというのは、決まったパターンの繰り返しです。私たちの普段の生活は、ニーチェの嫌悪した永劫回帰でもあるわけです。だから、山田のコンテクストというのは、日常生活の繰り返しと重なってくるように思えるのです。おそらく、山田の制作していた行為というのは、日常の毎日の中で、膨大な量の繰り返しを重ねてきたものではないかと思います。山田の作品の背後には、ニーチェでいえば、退屈な毎日の繰り返しが何十、何百、何万、何億と積み重ねられていて、それが直接ストライプとなって表われていると思うのです。そこから、何を読み取るのか、これ以上言葉にすると陳腐になってしまうので、これ以上は進めませんが。そこには、芸術作品の感動とは異質な、しかし、身体とか心を揺さぶることがあるといえるものがあるのです。

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