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2017年8月 6日 (日)

endless 山田正亮の絵画(3)~Still Life〔静物画〕1948~1955

Yamada2017stillife06  初期の仕事ということで、抽象画を制作する前はほとんど静物画ばかりを描いていたようで、しかも、これらの作品は実際の写生ではなくて、記憶で描いたということが会場ガイドで説明されていました。多少の風景画や花を描いたものもありましたが、ほとんどすべてといっていいくらいにテーブルに乗った食器のような器物を描いた作品ばかりでした。それが、受付すぐの「Color」が展示されている壁の先の展示室の両側の壁に横一列でずらっと並んでいる光景は、まずインパクトがありました。この画家の印象として、まず作品の量ということは、この後のWorkのシリーズでもそうですが、量に圧倒されます。これだけの量を、しかも、似たような、というよりも、ほとんど同じモチーフで構成で、それが何十と並んでいるわけです。このひとつひとつの作品をひとりアトリエで、来る日も来る日も飽きもせずに、こつこつと描いていたというわけで、その姿を想像するに、どこか尋常でないものを感じてしまいます。私の常識で言えば、これだけ同じようなことを繰り返していれば、やっているうちに習熟していって、もとこなれてきたり、目先を変えようとしたり、それよりも、別の作品を描いたりしたくなるのではないか。それよりも、これだけたくさん描いていれば、描くことが好きなはずとは思うのです、飽くことなくこれだけの作品を制作しているということは、その内容はどうあれ、好きと言い切れるかは分かりませんが、最低限、本人は苦になっていないからできることではないかと思います。しかし、並べられている作品を眺めていて、歓びとか、楽しさのようなものは伝わってこないのです。何か暗くて、重い。奔放さというよりは抑えられたような感じ。お世辞にも見ていて楽しくなるようなものではありません。
Yamada2017stillife51  それでは、見ていて楽しくならないようなものを、わざわざ入場料を払って見に来た私が変なのかということになってしまいますが、それに対して反論するつもりはありません。多分、最初に述べて、再三触れていることですが、この画家の作品を見るというのは、作品の一点一点を愛でるというのではなくて、単純に、この物量に驚くというところに魅力があるのではないかと思います。つまり、その物量に圧倒されるような空間に身を置くということ、その尋常でない空間を体験するというところに在るような気がしました。それは、作風は全く異なりますが、マーク・ロスコの壁面のような茫洋な作品に、その大きさに圧倒されて、しかも室内で囲まれた空間にいると、非日常的な空気に包まれてしまう感覚に囚われるのと似ているような気がします。ロスコが作品の大きさで、そのような空気を醸り出していたのに対して、山田の場合は作品の数で圧倒する、ということになります。だから、ひとつひとつの作品を鑑賞するというのは、山田の作品の場合は向いていないのではないか、そういう性格を、この展示を見ていて感じました。10年以上も前に府中市美術館の展示で、ずらっと並べられたStill Lifeの作品の数と、変わり映えのしない個々の作品にうんざりしたのは、そういうことだったのかと分かったような気がします。
Yamada2017stillife64  これは、似たような静物画をたくさん残したジョルジョ・モランディの場合と比べると分かってもらえるのではないかと思います。昨年の東京ステーション・ギャラーでのモランディの回顧展では、ギャラリーにモランディの静物画が、今回の山田の場合同じように、似たような静物画ずらっと並べられていました。しかし、その場合には個々の静物の微妙な違いを愛でる見方をしていました。それは、作品の画面の中の瓶や食器の配置や並べ方が変わると、画面が変化する、それで多様な作品世界のヴァリエーションがうまれ、その違いや変化を楽しむというものでした。したがって、展示室全体の空間とか空気などは関係なく、近視眼的に個々の作品の前を移動するような見方をすることになります。同じようなテーブル上の器物を描いた静物画でも、山田とモランディとでは、まったく作品のあり方が異なっていて、作品に対する見る側のスタンスも異なるというのは、私の独断と偏見かもしれませんが、その違いは別のところにも反映していると思います。モランディは、アトリエに静物画の題材である瓶や食器を備えていて、それを実際に並べてみて、様々な配置を試み、それをもとに作品を描いていたそうです。これに対して、山田の静物画は最初のところで引用した解説によれば、写生したものではなくて、記憶によって描いたものだそうです。この違いは、単純化すれば、モランディは対象である静物の配置に変化による見え方のヴァリエーションを画面に写すように描いていたのに対して、山田の場合には、沢山の数の作品を描いた、その描いたのが静物だったということではないかと思います。モランディは何かを描くことが、山田は描くことをすることだったのではないか、ということです。
 さっきも言いましたが、そうは言っても山田の作品には、描く楽しさは伝わってきませんでした。それは、山田が義務感でいやいや描いていたというのではなくて、描くことに敢えて楽しむという理由付けをしなくても、習慣のように自然と描いていたのではないかということです。例えば、食事について、毎日の食事はおいしいにこしたことはありませんが、習慣で食べています。これに対して、外食という、わざわざ出かけて食べに行くというのは、おいしさを求めて食べに行くわけです。山田の場合には、描くということは三度の食事のように習慣化されて、おいしさを求めるため以前に、食べるというところまで血肉化していた、それは凄いことと思います。この場合、後で触れると思いますが、山田の場合には、描くというのは塗るということであったはずです、この描くという行為そのものがまずあったので、何を描くかは、その後に来た。そこでは静物を描きたいという動機ではなく、描くことがあって、その描いたのが静物だったということではないか。
Yamadastil97  山田自身ノートなどからは、戦争で焼かれて廃墟のような世界の中で、歴史とか人のあり方とか、それまであったことが崩壊していく中で、形ある実在を手近に感じることができるのは事物しかなかった、というようなことがうかがえるかのもしれません。例えばこのような言葉です。
 “記憶は時をへて消えさることも可能ですが ものごとの始まりは時間をおいて見なければその位置を意識することはできないでせう 最初の風景 レアリテによる認識 そして静物 死んだ自然 形態 与えられる 色彩 その内部の特質を自分で体験した敗戦直前の直後の空白に在る意味を考へて見て下さい すべてを絵画存在の理由にするわけてはありませんが ひとつの現実であることは確かと云えるかもしれません”
 “私の前に風景はなく、静物しかなかった。絵を描き始めた頃はむろん、絵具も画布も不足し粗悪であったが、描いていること自体幸福な時間であり、状況は概念的にとらえることもできないほど現実的であった。生と死の間を彷徨した病後、いくつかの挫折感を味わうことになったが、形体に対する執着は絵画に接近する度合いをさらに深めることになったようだ。”
 ちょっとエエカッコしすぎではないか、と私には、後付けでつくっているように思えます。それよりも、上で述べたような描く、塗るということに関して、その後には抽象的な作品を量産していきますが、未だ山田はそういうのを知らなかったのか、描く、塗るのに都合の良かったのが静物画だったのではないかと思えてきます。風景とか花とか、他の題材を試して見て、静物画であれば、自宅のアトリエで毎日、習慣のように描く、塗るのに適している。
Yamada2017stillife95  そうして描いて、塗っているうちに、その描く、塗るのにやり易いように、少しずつ手の動きがこなれていく、それに従って描かれる画面が変化する。それは描かれた静物画として言えば、単純な構図は変わらないものの、最初のうちは背景はテーブルがあることを示唆するような水平線があるだけで、その上下が塗りつぶされているだけだったのが、静物の背後に額縁が窓枠のようなL字型の帯が描かれて、その帯に囲い込まれたところは手前のとは別の次元というようになって、ついには、静物と背後の区別そのものが消滅してしまって、同時に静物の輪郭線が画面全体で反復されるように拡散して、それが画面を分割し始めていきます。あるいは、左上の静物画の辺りから、その傾向が見えてきますが、リンゴ(他の作品ではレモンなど)のような果物の輪郭と瓶や壺といった容器の注ぎ口が、円形という形態をしていて同じように描かれていって、それが進むとその円形どうしがまるで交換可能なように画面の中で流通するように相似的になって、ついにはその円形が独立するようになって、画面のそこここに円形が散りばめられるようになっていく。例えば一番下の図像である「Still Life no.95」を見ると、画面全体が様々な明るさの緑、黄土色、茶色、青などの色を塗られた中小の面がパズルを当てはめたように覆い尽くしています。しかも、画面全体には中心がなく並列というのか平面的なバラバラに配置されています。水差し、花瓶、ガラス瓶、皿、シャンパングラス、円形の果物といった、これまでの静物画のモチーフが、不完全な輪郭になっているけれど、これまで描かれてきたパターンをなぞっているので、そういう形態と分かるような輪郭線が、同時に直線や曲線として矩形の場面構成のパーツとしても使われています。また、色塗りされた面としても画面で機能して画面全体の色彩と明暗のバランスを取っています。ここでは、静物の置かれた遠近や、静物の大小がバラバラにされて、画面が平面となって細かな面、例えば近接する静物と静物の間の空間は、もともと狭かったのが、さらに線によって分割されたり、その静物の描かれているのが色面となっていて、その色の明るさや色彩の対照で際立たせられたりしています。しかも、その静物の内部も外部の空間と同じように分割され、対照されています。しかも、その内部と外部を区分する輪郭が不完全になっています。つまり、空間と静物の区分が曖昧になっています。例えば真ん中に見える水差しの左半分は周囲の青や緑の明るさに比べて明るいベージュ色で、左側周辺に空間があるのが分かりますが、右下半分が青く暗くなって陥没しているために、この水差しの総体は両義的な曖昧さのなかに宙吊りされている印象なのです。しかも、この水差しの右外側のグレーの面が明るい部分と暗い部分が交錯していて平面的になっていて、しかも一部がシャンパングラスの面に侵入しています。空間だか静物だか曖昧になっています。そういう部分が画面のいたるところにあります。ここから初期の「Work」はすぐそこのところにいます。それは、描く、塗る作業を繰り返すように続けていく際に、何らかのパターン、これが山田の絵画の場合には形式ということになると思います。その形式を形成していくのに、静物画というシンプルな絵画様式は適していたと思います。それが、こりのように変化していくのは、モランディの場合のように、個々の作品の変化が積み重なっていくので、個々の作品で見ていけるというのとは違って、この展示室の空間のように、一堂に介して圧倒的な物量で囲まれると、その作風の変化は展示されている空間に静かなウェイヴとでもいえばいいのか動きを生むことになります。たぶん、それが先ほど触れた、空間をつくる作家ロスコとの違いです。ロスコの作品にはスタティックな静けさがあります。それが見る者を瞑想に誘うところがあります。よく言われる神秘性もそうところから来ているのでしょう。これに対して山田の場合には、ダイナミックな、もっと猥雑なうるさいほどのエネルギーです。それを生み出しているのが、その変化の動きです。そういう動きを生み出すのは、個々の作品が閉じて完結していないからで、それらについては、この後の展示で見ていきたいと思います。

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