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2017年8月 5日 (土)

endless 山田正亮の絵画(2)~Color 1997~2001

 Yamada2017color1 まず、会場に入るとゲートのようにして壁が作ってあり、その左右に横一列に、およそ60cmくらいのそれほど大きくはないキャンバスの作品が並んでいました。私は、はじめ気がつきませんでした。それほどさりげない感じで、存在を主張していないようでしたからです。というのも、以前に府中市美術館の展覧会のときに見た「Color」が2m近い大きさのものと、もっと大きい見上げるようなものだったインパクトが強く残っていたからでもあります。
しかも、このシリーズの作品は山田の最晩年の作品で、100点以上制作されているはずですが、今回は、この入り口のところに小さい作品が数点展示されているだけです。この後、画家の制作遍歴を追いかけるように作品が展示されていきますが、その最後のところには展示されていなくて、この最初の入り口のところに目立たない形で置かれていました。この展示の仕方には、おそらく何らかの意図てきなものがあると思います。まあ、そんなことを最初から考えてしまうと、作品を見ていけなくなってしまうので、覚えていたら展示の最後のところで、とのことを思い出して考えてみたいと思います。
 「Color 油彩作品の制作年は、画面に塗布されたいくつかの色調が或る様相を現す時期として記述される。
 作品はさらに数色の位置から統一する色彩に収斂されてゆく過程に、概ね、1~2年の時間を要した。その領域は存在についての一形態と重なり、完、未完の意味作用から離れる。」
 本人のノートの言葉らしいのですが、見ていただくと分かるように、単色を一面に塗ったというのではなくて、画面に何層にも色を塗り重ねていったものと思われます、しかも、このノートの言葉によれば、そのために1~2年という時間をかけたということです。塗っては確かめの繰り返しで、画家が納得するまでに、それだけの時間をかけたということでしょうか。それは、作品を見ていると、とくに端部には下層に塗られた色が表われていたりして分かります。塗り方についても、塗りむらを残したりして、単に色を塗ったものではなくて、微妙な陰影(というのか)を作り出しています。おそらく、これは画家が計画したものではなくて、偶然生まれたものではないか、そういうところに身体性とか偶然性が出ていて、山田は、それを取り込んで言ったのではないかと思います。引用した画家の言葉の中に“完、未完の意味作用から離れる”とありましたから、もしかしたら、これらの作品については通常の意味での完成作品という見方は当てはまらないかもしれません。山田は、1~2年という時間に限定することなく、気が向けば、いつでも、これらの上からさらに色を塗り重ねたかもしれません。絶えず生成するというような性格を持たせようとしていたかもしれない、ふと思いました。
 この「Color」のシリーズについては、2005年の府中市美術館で見た際と同じように、私自身の乏しい知識の中でマレーヴィチのシュプレマティスム絵画で真っ黒とか真っ白の方形の作品を思い出しました。10年以上経っても相変わらず進歩がないとは思いますが、山田の「Color」はそれとは、全く異なるものであることは、今回よく分かりました。シュプレマティスムについては、マレーヴィチは「絵画は具体的なものをそれらしく描く、つまり再現することにこだわる限りいつまでも奴隷の状態にある」と考えたそうである。物の効用を考えるとか、物の表面的部分を見るのではなく、そのものの本質を見ること、これが大切であるという。本質を見るということは余分なもの、不純なものを取り除いた「感覚」=「純粋な感覚」の中にあるといいます。マレーヴィチは「シュプレマティスムの名のもとに私が言いたいのは、創造的な芸術においては純粋な感覚だけが、最も良い次元に到達できるものだということです。・・・大切なのは感覚そのものです。そして、それは、感覚を生じさせる環境とは全く切り離されているのです」という。つまり、マレーヴィチの場合には、純粋を突き詰めて不純物を取り除いて抽象的な理念にまで至ってしまうものといえます。マレーヴィチの言葉に「純粋な感覚」とあるのは、現実に感覚することよりも感覚という概念とか理念に近いものになっていると思います。従って、黒一色の方形の画面についても、黒という色について、人が現実に見ている黒という色は不純物が混入していて純粋な黒ではないのです。しかし、マレーヴィチの言葉に従えば、現実名はありえない純粋な黒を求めることになるのではないか。それを突き詰めれば、実際に描くとか、作品という物体を見るということは不純ということになります。そういうところに行き着いてしまう方向性がシュプレマティスムにはあると思います。
 一方、山田の「Color」は一見では単色に塗り込められているようにも見えなくもありませんが、求める方向は純粋とは正反対です。だいたい、この「Color」という作品を見ていて、人というものは云々と言いたくなりますが、綺麗に一様に色が塗られているところよりは、縁のあたりの塗り漏れなのか他の色が現われていたり、何箇所かある塗りむらのようなところで、下に塗られている色が透けて見えていたりするところに視線が行ってしまうものです。おそらく、山田は意図的にそうしていると思われます。当然、これは山田が意識的にやっていることでしょう。このことだけでも、マレーヴィチの純粋な理念を目指すのと全く方向が異なることが分かります。山田のそういうところを、私は塗りむらという言葉でいいましたが、それはマレーヴィチのような純粋さの立場から言うとそういう言葉を使ってしまうので、山田の作品に沿って言えば、塗りむらというマイナスのニュアンスの言葉でない言葉を使うべきなのかもしれません。
 それは、さっきも言いましたが、作品が完成することなく生成過程にあるというスタンスではないか、ということです。そして、そこから見えてくることは、例えば、この作品では、平面として奥行きのような三次元の立体性を放棄してしまっていますが、その代わりに結果として時間を表わしているといえるのではないかということ。つまり、何層にも塗られた色が画面の各処で垣間見せることで、過去の「Color」を想像させると、今見ている作品の表面の下には別の「Color」が表わされている。それを垣間見ることで、複層的にふたつの時期の作品を結果的に見ていることになると思います。また、もしかしたら、その垣間見ている表面はふたつ下かもしれないし、もっと下かもしれない、とすると過去が交錯していることになります。つまり、この「Color」には複数の時間が交錯しながら凝縮して詰め込まれていて、それが、画面の各処に配された綻びのような箇所から見ると、一気に噴出してくる構造になっているといえないでしょうか。私は、その時間を追いかけるのは楽しいと言えます。
また、そのような構造は山田があらかじめ計画したものではあるのかもしれませんが、それ以上に、どのように綻びをつくっていくかは絵筆を持っている手という肉体の即興的な動きに拠るところが大きいのではないか、ということです。そこに肉体的な要素、その肉体が動いているというダイナミックな要素があるということです。
 おっと、入り口にさりげなく展示してあって、私自身最初は見過ごしてしまったような作品について、書きすぎたかもしれません。

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