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2017年8月 9日 (水)

endless 山田正亮の絵画(6)~Work D 1970~1979

 Work Cの作品群はストライプだけではないのだけれど、その傾向はこのWork Dにずれ込むように一部重複していると思う。これは、私の主観的解釈かもしれないけれど。広い展示室の壁一面にストライプ作品がズラリと並んだ圧巻から、展示は折り返し点にきたように、小部屋に区分けされたスペースに数点が飾られた落ち着いたものに変わります。これは、展示している近代美術館の演出なのでしょうか、見せ方をかなり考えていて、そこに、この展覧会の主張がよく表われていて、感心しました。それは、この後のWork EとかFの展示と前のWork Cの展示の間にあって、ちょっとした谷間の息抜きのような効果をあげていたからで、この展示の演出(あえてそのように言います)から受ける印象では、相対的に静的な傾向を帯びているようにも見えてくるからです。
Yamada2017workcd259  そのような印象と重なるかもしれませんが、それには前回の展示についてのところで十分に書けなかったところから始めたいと思います。それは身体とか肉体ということです。前回で触れたニーチェの永劫回帰というような、同じこと繰り返しを嫌うということには、それを考えている人が肉体をもって生存している生物であるということが無視されていると思わずにはいられません。生存するということは、一定の行為の際限のない繰り返しであるからです。例えば、食べて排泄するということ、寝て起きるということは、1日というサイクルにして、生きていれば、ずっと繰り返し続けるなければなりません。それが窺えるとは限りませんが、山田のストライプの作品をよく見てると、そのストライプを描いている線とか帯に山田という人間の肉体を濃厚に感じさせるところがあります。それは、例えば、モンドリアンの「コンポジション」のシリーズの作品と比べてみると一目瞭然ですが、両方とも直線と色彩だけで構成されている点で共通点の多いように見える作品ですが。モンドリアンの場合、直線は定規で引いたように真っ直ぐで一様で、筆触も感じさせないように処理されています。いわば、直線という概念を目に見えるように、できるだけ忠実に再現しているようなのです。現在であれば、画家がわざわざ筆で描く必要はなくて、コンピュータで画像をつくっても、むしろその方が忠実に再現できる、という性格のものです。これに対して山田の作品はコンピュータでは再現できない。モンドリアンの直線と違って、山田の線や帯は一様ではなく、厳密には直線になっているかどうか疑わしい。とくに筆触の跡が生々しいほど残されています。それを見ていると、山田が線を描いている肉体を想像できるのです。話しは変わりますが、書道の鑑賞において筆勢を追体験ということがあります。つまり、書かれた字をみて、作者が筆をどのように動かしたかを筆の跡から想像し、その時にどこで息をつめ、息を吐いてというのを想像すると、どこでどのていど気持ちをこめてまで想像できてくる。それを追体験すると、まるで書かれた字を通して作者と共通体験をしてしまうのです。山田のストライプ作品の筆触の乱れ(これは悪い意味ではなく、モンドリアンのように機械的に見せていないという意味合いです)には、彼の肉体の動きだけでなく、肉体をもった精神の張りとか、そういうものを見る者が共通体験できる要素を残しています。だから、あれほど沢山のストライプ作品を描きながら、行き詰ることなく制作を続けることができたのではないかと思います。おそらく、山田がストライプ作品から他のパターンに移行したのは、ストライプに行き詰ったからではないでしょう。
Yamada2017workd087  そして、その移行していった作品たちが、Work Dとして展示されている作品群です。そこには、これまでに比べて静謐な印象、それは機械的なパターンに意識して近づいたように見えるからかもしれませんが、を受けるものでした。例えば、Work D259を見ると、色使いが淡色系の色調になっているからかもしれませんが、穏やかな印象を受けます。それだけでなく、ここにも筆触が現われているのですが、その見え方がWork Cのシリーズと異なってきて、それが穏やかな印象を作り出していると思えます。それは、ある意味では筆触は、Work Cでは、ストライブというパターンでは過剰さとして、そのパターンをはみ出してしまうものとして見えていました。それが、ここでは安定していて、パターンの中に収まって、はみ出してしまうような過剰さが見られなくなっている。また、Work D87という作品では、ストライプのかたちり作品ですが、前に見たWork Cの作品群のように絵の具の厚塗りを重ねたことで生まれる画面の凹凸は見られず、絵の具の垂れもなく、機械的に水平線をひいたような印象です。私の山田の作品の捉え方、何度か述べましたが、何かを描こうとする志向性がなくて、描くという行為を行なった結果が作品として残った。つまりは、描くという画家の肉体の動きの軌跡が作品ということになる。それが山田の表現衝動ともいうべきものではなかったか、と思いながら作品を見ていくと、私なりに辻褄が合うように見えてくるのです。もしそうであるとすれば、前の段落で述べたようなWork Cのストライプにある筆跡という見方は、そこに山田の息遣いから、感情とか、もっというと気のながれのようなものを探ろうとすることに繋がります。それでは、画家が意図しているものでないかもしれませんが、何かを表現することになってしまう。それは、見方をかえれば不純物ということになります。そのような不純物を排除しようとしたのが、ここで展示されているWork Dのシリーズではないか、というように私は見ていました。その結果、描くという身体の行為が当人の気持ちとか思惑といった不確定な不純物を取り去って動きだけを純粋に取り出した。それは、例えば、スポーツのゲーム、例えば、テニスや卓球のゲームでプレイヤーである人たちの気持ちとかそういうものとは無関係に、目にもとまらぬスピードで行きかうボールの動きと、それを生み出しているプレイヤーの肉体の無駄のない動きが美しいのに通じるような、美しさを持つものに近いと思います。つまり、このWork Dの作品群は、展示されている山田の作品のなかで、画家の肉体を反映していて、純粋な美というものに最も近いと思います。そこにある静謐さは、そういう性質のものではないかと思います。しかし、その反面、このWork Dの作品群には、息苦しさを感じることもあります。展示方法がWork Cの場合のように広間にずらっと並んでいるのではなく、仕切られた小部屋に数点ずつあるからかもしれません。想像するに、スポーツの美しさは、実際に動いているのに対して、絵画には動きというものがなくて、静止してしまっているので、どこか閉じ込められたように感じるところがあるのではないか。ある種純粋で完璧なものを求めることは、閉塞感のような息苦しさを伴うところがあるのかもしれません。Work Dの作品には、そういう性格があるように思います。

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