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2017年8月 1日 (火)

AIに人間が負けるというのは「能力」の定義が関係する?

 チェスや囲碁、将棋でコンピュータが人間のトップ・プレイヤーを破ることが日常化しているが、そのうちAI将棋の開発者は、ディープ・ラーニングは一定の枠内で収集された過去のデータを学習するもので、将棋の過去のデータを学習し、その応用問題を解いているものだという。つまり、従来のパターンのブラッシュ・アップを突き詰めたものだ。
 現在、企業においても、ビッグデータ解析などで効率を高め生産性を上げることはできる。しかし、それは新しい価値や需要を生み出すものではない。例えば、来店客の購買データをAIで解析し、品ぞろえの効率化をしたとする。だが過去の来店客のデータを解析しても、「店に来たことのない客」や「未来の新製品への反応」はわからない。そうである以上、「固定客にもっと買わせる品ぞろえ」はできるだろうが、顧客の新規開拓や、新製品の開発には直結しない。結果的に、需要や価値を新しく生むことにはつながりにくい。過去のデータから、統計的に例外でも重要な事例に着目し、価値を与えることは人間にできても、コンピュータにはできない。
 そこでは、従来からの仕事を続ける、前例通りとか、ことは人はコンピュータに勝てないし、取って替わられるのかもしれない。現在の雰囲気は「AIですごいイノベーションを起こせば逆転満塁ホームランが打てるという青写真を描こうとしている」というものだという人がいるが、そうだと思う。それは、実際には現状の延命に過ぎず、本質的に保守的な姿勢ではないか。
 AIがディープ・ラーニングなどによってビッグデータというような大量のデータを解析して、例えば将棋や囲碁では、人間のトップに打ち勝つようになっている。企業の現場でも、生産性の向上を図るとか、事務系の人員を少なくとも20%は削減できるとか、事業システムの変革が議論されている。
 上のことに関連して、そういうAIが強さを発揮することというのは、企業が従業員に仕事の進め方で推奨するPDCAをまわすことができること、やるべきことを分析して、具体化し、目標を数量化して、段階的に達成を積み上げ、実績は達成度ではかるということではないか。つまり、企業に勤めて仕事を進めている人の大半が、進めている仕事の進め方の姿勢や、それで人事評価なんかをされていることは、AIに、より適していることにはならないか。戯言かもしれないが、人間は、そのAIがまわすPDCAをうまく使うこと、PDCAを回す前段階の新たな価値を生み出すとか、いずれにせよ、そういう枠の外側に位置できるか、ということになるのではないか。
 例えば、将棋の世界で、藤井四段が将棋ソフトの成果をとり入れて定石に全く新しい視点で価値付与をしようとしている。その新しさで先輩棋士に連勝した。
 そう考えると、企業の現場で求められている「能力」という考え方が変化しようとしているような気がする。
 将棋というゲームに勝つ能力では人間よりもAIの方が優れている。棋士というのは、将棋で相手に勝つということをするもの。したがって、将棋に勝つという能力に優れているのであれば、将棋というゲームの世界において、人間の棋士をリストラしてすべてAIに置き換えればいい。それが能力主義ということを論理的に考えればそうなるでしょうが、実際に、将棋の世界ではそうならない。それは、人間の機械に対する差別意識からなのか。これは、企業の現場でもいえる。能力主義とか、能力重視といって、採用や人事評価において、能力だけで評価するということがフェアであるといわれている。しかし、実際に、それだけで評価している企業はないだろう。それは、能力という考え方がそもそもおかしいのではないか。あるいは。能力といって、そこで求める内容が間違っているのではないか。
 例えば、将棋の棋士は将棋というゲームをする。勝つと賞金を得る。それが棋士というプロの生きる糧だ。だから、将棋に勝つことが必須で、そのための能力を磨いている。しかし、このときの能力は十分であって必要ではないのではないか。それは、棋士が得る賞金はどこから来るのか。それは将棋連盟から。その将棋連盟はどこから収入を得ているのかというと、将棋の大会を主催したり後援する新聞、放送、そして企業からの契約金だ。つまり、宣伝なのだ。とどのつまりは、棋士とは企業のサンドイッチマンなのだ。将棋に勝つということは、その宣伝効果、つまりネームバリューの手段ということだ。したがって、棋士にとって必要な能力は、そのサンドイッチマンとしての存在に関わること。極論をいえば、プロの棋士のプロたる由縁は、将棋をすることではなく、将棋により企業の宣伝をすることであるはずなのだ。そして、これはAIにはできない。だから、AIに取って代わられることはありえないのだ。
 そう考えると、企業現場で、いま、能力として求められ評価されていることは、十分でしかないものといえないか。

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