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2017年9月21日 (木)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(3)

3.準備的応答

この問いかけに対する、よくある応答を見ていきます。決断Xや出来事Xを時間的な幅をもったものとしても、問題の本質的な点は変りません。例えば、主観的な「今」に500ミリ秒ほどの時間幅をもたせて「今」における決断/出来事としてのXがその時間幅を持つとしても、分岐問題が解消するわけではありません。その時Xは分岐点の前後に広がりますが、なぜ歴史Bではなく歴史Aのほうが現実の歴史となったのかについて、Xの広域性は答えてはくれないからです。

もし、分岐点以前のXの部分があることでXの残りの部分が実現することが定められているなら、歴史Bへの可能的分岐は実在しないので、歴史A以外の歴史への分岐点はXの先端より前にあることになります。他方で、歴史Bへの分岐が本物であるとすれば分岐点以前のXの部分と全く同じ内容を持つ出来事Yが分岐点の前後に広がっていることになります。このとき、YではなくXが実現した理由は、歴史Bではなく歴史Aが選ばれた理由として、再び分岐問題のもとで論じられることになります。

時間が最小単位としての幅を持つと仮定し、時間の分岐図は、そうした単位時間の非連続的な集まりから成ると考えても、分岐問題は消失しません。歴史の単線部分から複線部分への移行においては、時間がたとえ非連続的であろうと、歴史の選択の問題が現われてきます。あめ単位時間の後に、可能的な二つの諸単位時間のどちらかを選択するのというかたちで。

この分岐図に対しては、Xを歴史Aのみに含め歴史Bには含めないかたちでの、時間軸の切断が試みられるかもしれません、時間軸を実数と同様の連続性をもったものと仮定して、この図を三つの部分から成る図に改変してみましょう。それぞれの部分を「共有部分」「歴史A専有部分」「歴史B専有部分」と呼ぶなら、共有部分の未来派開いており、歴史A専有部分と歴史B専有部分は閉じている。Xは歴史A専有部分の最小元に位置づけることができて、他方で、歴史B専有部分はXを含めないことが求められることになります。このとき注意が必要なのは、歴史B専有部分がXと同時の点を含むことです。さらに、そこにはXと排他的な何らかの出来事が存在しているということです。

Xの位置する時点を「分岐点」と呼べるか否かは、微妙な問題です。歴史Aのみに分岐点を含めることは不合理であり、歴史Bにも「分岐点」を含めざるを得ないでしょう。この意味での分岐点は独立に二つあり、それは当初の図における単独の分岐点とは異なるものです。

三つの部分の図はXは歴史A専有部分の始点にあり、それゆえ、歴史Aが選ばれた後にXが実現したとは言えません。しかしそのことをもって、Xによって歴史Aが選ばれたと述べることにも困難があります。Xの実現は明らかに歴史Aの偶然的選択と同義であり、なぜYではなくXがしょうじたかついて実質的には何も述べることができません。

ここでは、可能的歴史の内容が形而上学的に思考されている。つまり、「病院に行く/病院に行かない」のような荒い言語的弁別は、それぞれの可能的歴史への、認識論的興味からのラベリングにすぎません。歴史Aや歴史Bは、これらのラベルには記載されていない細部─例えば何歩で病院に着いたかなど─をもっており、だからこそ完全性を持っているとは、任意の主題に関してその真偽が定まっているということです。

諸可能性の内容が定まっている人は、未来の非決定性とは独立であり、未来の真理価の実在論を前提とするものではない。また、可能的なある未来において、この現実の、現在の言語では指示不可能な対象が存在したとしても、本章の議論には抵触しません。ある可能的歴史の内容は、その歴史的内部での言語によって命題化できればよいのであり、その言語は当該の歴史全体を眺望した観点からのものであって良いのです。話者の認識的・言語的限界によって拡大・縮小します─時制的にであれ、人称的にであれ─いわば心理主義的な様相はここでの争点ではないし、仮に様相とはその種のものにすぎないなら、分岐問題も肇から問題にならないでしょう。なぜならその場合、様相とは話者の無知ゆえのおしゃべりにすぎず、世界の実像は決定論的である、と述べてもかまわないからです。

歴史の言語的弁別における認識論的ラベリングの問題は、分岐図における二又の歴史を、二つの個別的な毛旗幟を表わしたものと考えて良いし、二つ歴史の集合を略記したものと考えて良いでしょう。つまり、病院に行く歴史と行かない歴史にはそれぞれ無数のバリエーションを持つが─百歩で病院に着く歴史と、百一歩で病院に着く歴史のように─そうした無数の可能的歴史が、病院に行くか行かないかという二分のもとで略記されているものとして。だから、分岐図のような二又のは実際には百叉であっても千叉であってもかまわないわけです。いずれにせよ重要なのは、どの個別の可能的歴史も完全性を持つことてす。

非空間的な(すなわち持続的な)自由の経験は空間化された描像ではとらえられない、としても、そのことから、分岐図のような空間化自体を退けることはできません。分岐問題を形成しうるに十分な略記で可能的歴史を概念的・言語的に空間化できること(例えば病院に行く可能性と行かない可能性の分岐を描くこと)は、現実での自由の経験のすべてを空間化できないことと矛盾しないし、後者の指摘によって分岐問題が解消することもないでしょう。そしてわたしの見るところ、ベルグソンの語る「自由」は人格(過去の人生の履歴)の表現・投企としての自由であって、未来の非決定性と直接関係はしません。というのも、そこで重要なのは「作品と芸術家とのあいだに時に流れるあの定義しがたい類似」が、行為と人格全体との間に存在することであり、それは決定論的世界においても十分に設立可能だからです。

分岐問題は、同一性についての─何かが複数に分裂した時、どれが分裂前と同一のものかという問題─ではない。分岐点において、これまで単一だった歴史が複数に分裂するわけではないし、複数に分裂した歴史のうち、どれがこれまでの歴史とつながっている(同一であか)が問題なのではない。可能性の樹系図における分岐が可能的分野である以上、文字通り、分岐後の歴史はどれも分岐前の歴史と繋がっていることが可能です。歴史は可能性として分岐するのであって、実在として分裂するのではありません。

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