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2017年9月30日 (土)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(11)

4.分岐図の外へ

著者はいいます。諸可能性からただ一つの可能性を現実化させる要因は、時間分岐図の上には低位できない、と。ただ偶然のみが無要因の要因として、つまり、諸可能性を選ぶ要因としてではなくて、ある個別の可能性の無根拠な現実化そのものとして、承認されうるものに過ぎない。つまり、いつくかの選択肢の中から結果的にひとつが現実化したことの後付けの理由説明にしかならないということです。だから、この場合、ある時間に偶然が在ることは、ある時間に分岐が在ることと同義であり、それ以上に付け足される偶然の要素はない。このような偶然(=分岐)があるのであれば、諸可能性の一つは無根拠に現実化することでしょう。もしそのようなものがないのならば、単線的決定論は真となります。この文脈で自由意志について考えてみましょう。例えば、行為者因果説では、ある可能性の現実化が自由に為されるのは分岐図のどこに位置するのか。この問いには、「分岐図上に」と答えたくなります。この説での行為者は、諸可能性として並置されているところから、分岐点においてひとつを選択して行為をひき起こすように見えます。つまり、行為者自らが因果の起点となる仕方で、自己原因というような伝統的に神に付されてきた働きを、行為者が引き継ぐということになってきます。

しかしまた、分岐点に置かれた行為者は、どのような意味で「その時点に在る」と言えるのか。あるいは、その行為者は通常の出来事間の因果連鎖にどのようにして影響を及ぼすことができるのか。これらに対しては、行為者は通常の時間系列や因果系列から脱したところに位置するといわざるを得ません。しかし、それでは行為者因果説の矛盾ということになります。

次のようにも考えられます。歴史選択の要因が分岐点上にあるという返答は、分岐問題において、次のような理由で退けられていました。すなわち、分岐点上のあらゆる出来事は(選択肢の)両方の歴史に含まれるのだから、一方の歴史を選ぶ役には立たない。歴史Aと歴史Bの分岐点上に偶然を置くとすれば、それは歴史Aにも歴史Bにも含まれていることになるわけで、その同一の偶然は歴史Aにおいては歴史Aが、歴史Bにおいては歴史Bが選ばれるような働きをしなければなりません。偶然が自己同一性をもったものであれば、これらの両方の要請に応えることは不可能に近いでしょう。偶然の存在は、分岐点ではなく、分岐の存在ということです。

しかも、このとき、その分岐において一方が選ばれる要因は何なのかという要因がないということが、偶然の選択ということです。つまり、無根拠な選択がなされること自体が偶然なのです。実際には、偶然の選択などありえず、諸可能性の一つがなぜか、無根拠に、現実になっていくにすぎないのです。

このようにして、自由意志説における分岐問題への応答は、現実化の要因はまず分岐点上に求められ、次いで、分岐図のどの箇所への定位をも拒むことになりました。

 

5.両立的自由

著者は両立論と分岐問題の関係について考えることに移ります。本来なら両者は無関係です。両立論では、決定論は真でないか、真であっても自由は成り立つと考えるからです。両立的自由の各種の規定によって、在る行為を両立的に自由とみなす根拠は、単線的/分岐的時間系列のさまざまな場所に、出来事や性質として定位されることになるでしょうが、著者は、この時間系列上の分岐の有無は問題を生むとして考察を始めます。

両立的自由のためのきわめて重要な規定は、邪魔されずにしたいことをするということです。この邪魔されないというとは多義的です。そのひとつは、ある行為の意志とその行為の実現の間に「妨害」がないという意味です。そしてまた、意志していない行為を強いられることがなかったという意味での「強制」のないことという意味でもあります。両立的自由の議論においては、これらは的確に区別されていません。

ある特定の行為Aに関して、Aをするように心に決めることをMaと呼び、Aをしないように心を決めることをMaとよびます。そしてある行為が現実に、ある時点においてMaをなし、その後、妨害なくAを実現したとします。このときの、その妨害のなさを意味づける有力な方法は、Maをなしつつもある介入によってAを実現しえなかった反事実的可能性を、単なる仮想ではなく現実化し得る個別の可能性として承認すことになります。

この「邪魔のなさ」について著者は次のように言います。決定論的な歴史だけを見て、反事実的可能性を真性の可能性として承認しないなら、両立的自由の規定に含まれる「邪魔のなさ」の理解は困難である。

例えば「妨害」に的を絞ってみましょう。仮に決定論が正しいとして、ある行為者が現実に、MaをなしAを行ったとします。このとき、「Maをなし、その後、妨害なくAを行った」ことと、「Maをなし、その後、Aを行った」こととの違いを、明確に分けられるかどうか疑問だと言います。MaからAまでのあいだにどんな出来事が起こっていようと、現実にAが実現されてしまっているわけです。そして、それ以外の諸可能性がなかったので、妨害はなかったといわざるを得ません。こう言った方が正確でしょう。妨害の有無を有意味にする反事実的可能性─ある出来事によってAが妨げられた可能性─がない以上、その「妨害のなさ」は実質を持たず、無内容ということになります。著者は、Maを行い、妨げられることが決してありえないAが「妨害なく」実現されたというすうことの概念的な空虚製を問題にします。

このような「妨害のなさ」についての議論は、狭義の「強制のなさ」に限らず、僅かな修正を加えることで広義の「強制のなさ」にも当てはまることになります。それらをまとめた「邪魔のなさ」に関して、両立的自由のその規定と、

決定論と整合的かどうかが問題です。

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