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2017年9月29日 (金)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(10)

3.何かからの自由

自由という概念を「あるものから不自由でない」ことを理解の前提にする観点があります。このような観点に基づく自由は、社会的権利としての自由、例えば本人の同意なく財産を奪われないことといったように、内容を明示し易いものです。これを著者は「何かからの自由」と呼びます。

自由意志も何かからの自由なのでしょうか。この場合の何かというと決定論ということになるでしょうか。しかし、何かが自由意志を妨げるからと言って、その束縛から逃れることが自由意志の実在性をささえるとは限らないでしょう。

もし、法則的決定論からの自由が自由意志の正体であるなら、いっさいの法則性に縛られない事態こそ純粋な自由意志と重なるはずです。しかし、例えば私の右手がまったく無秩序に、何の要因もなしに動くとします。このとき私の右手が突然誰かを叩いたとしても、それを純粋な自由意志の発露とみなすことは難しいでしょう。単線的決定論で考えると、「何かが何かをひき起こす」という意味での因果作用全般は幻想となりかねないのです。その場合、世界の個々の出来事はすべて、ある仕方で起こるとすればその仕方でとか起こりえず、他の出来事や対象によってひき起こされる余地はないからです。単線的からの自由も、自由意志とは言えないのではないでしょうか。

著者は、ヴァン・インワーゲンの思考実験を紹介します。人間の脳には火星人によるM装置が埋め込まれているが、我々は気付いていません。M装置は、人生の全体にわたるプログラムを含んでいて、人間の行為に影響を与えるものです。この場合の人間は不自由なのでしょうか。自由意志論者は「われわれが自由とみなしてきたものは、自由ではなかった」と言った具合になるでしょうか。そこで、あなたのM装置が故障して機能しなくなったとしたら、あなたは自由を獲得するでしょうか。「獲得する」と考える人は、人間がM装置なしにも自由でありうることは自明と考えています。しかし、M装置はあらゆる自由な人間の内部で働いてきたものです。M装置を失ったあなたが、どのような振る舞いをするかは分かりません。このとき、あなたがM装置の束縛から自由になる(束縛を逃れる)ということは確かです。しかし、それ以上の何らかの自由、とくに意志の自由が増すということとは別のことです。

実際のところ、人間の行動には様々な制約があります。例えば、引力から逃れて空を飛ぶことはできません。では、人間が引力から不自由であることと、M装置から不自由であるとに違いはあるでしょうか。まず考えられる返答は、引力は人間の行為は制限するが、決定はしないというものです。しかしそうでしょうか。M装置はすべての人間にあらかじめ埋め込まれています。それゆえM装置は各人の行為を完全に決定するものではありえないはずです。なぜなら各人の行為は、M装置によって決定されていない他の様々な要素(基本的には周囲の環境)によって影響を受けるからです。この論点は局所的な決定論の不可能性の根拠となりえます。

結局のところM装置は、何らかの規則性や傾向性のもとに人間を支配しているのであって、このような束縛の力は自然物の多くに見出されるものです、例えば私の心臓は自然法則に従っているし、それが私の振る舞いを束縛することになるでしょう。このような束縛とM装置による束縛とは、同質のものとみなしてよいでしょう。こうしたことからM装置に自然法則以上に脅威を感じる人がいれば、その人はM装置を神のような超越的なもののように見ているからです。M装置をセットした火星人の目から見れば人間の選択は決定されている、というようにです。

これを懐疑の目で見れば、人間を火星人が支配しているのであれば、その火星人を背後で支配しいてる金星人がいる、その背後にはという無限後退ができてしまいます。

では、火星人の支配の超越性は、いかなる立場の下で発揮されるのでしょうか。つまり、自由意志は何によって脅かされるのか、という疑問です。決定性と自由意志とが直接対立するということはなく、決定されていないこと(非決定性)は、自由意志と同じものではありません。もしし火星人が決定性のもとに私たちを脅かすのだしたら、そこで対立させられるのは、自由意志ではなく非決定性でしょう。

さらにM装置がプログラムの実行装置ではなく、遠隔操作の受信機であると仮定すると、火星人は私たちを観察し、その観察に応じて、私たちを操作する。このとき、私たちは法則というよりは、火星人の自由によって操られているように感じるかもしれません。この火星人の超越性は、決定性ではなく、自由の立場の下に発揮されているようにみえてきます。

このとき私たちは火星人を擬人化しています。つまり、私たちの自由意志を超越者としての火星人に譲り渡すということを想像するのです。その意味で火星人は私たち同じように考え行動し、限界をもつものと考えるわけです。それでは、火星人の自由が私たちの代替物ということになれば、その自由とは何なのかということ、その不明瞭さという当初の課題は手つかずのままです。

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