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2017年9月22日 (金)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(4)

4.作用と決定

いま宙を舞っている枯葉が落ちる経路には、どれ程多くの可能性があっても、ただひとつの経路を通ることになります。その経路き枯葉自身が意思決定をして選ぶのではない。そのただ一つの経路は、ひとつの言い方は自然法則によって決められるという。しかし、歴史の分岐点において自然法則が歴史を決めることことができるのでしょうか。自然法則を決定論的なものと考えれば、分岐問題は無化されてしまいます。分岐後にどちらへ進むかが決められているからではなく、あらかじめ、すべての分岐が失われることによって。あるいは、自然法則が確率論的なものと考えるなら、分岐問題は手つかずのまま残されます。いずれにしても、分岐点において自然法則が歴史を決めるということはありません。

自然法則が、枯葉の落下経路を決定するとすると、ここで言う「決定」とは、今後の枯葉の落下経路を、これまでのデータと自然法則を組み合わせて導くことができるという意味です。例えば古典物理学では、ある時点の世界データと自然法則があれば、原理的に、どの時点の世界データでも算出できる。今この瞬間のデータがあるなら、枯葉が十秒後にどこにあるのか、何年後にどこにあるのかも、きちんと求めることができる。

この場合、分岐問題はどうなるのでしょうか。枯葉が私の靴の上に落ちる歴史と、別の場所に落ちる歴史として考えてみましょう。この二つの歴史の分岐点が、今この瞬間にあると仮定します。現在の世界のデータと自然法則の組合せによって、どちらの歴史が現実になるかは完全に決まります。しかし、このことによって、今この瞬間、分岐した枝の選択がなされたと考えることはできません。なぜなら現在の世界のデータは、より過去の世界のデータによって決まるからです。そして、この過去への遡及はいつまでも止まることはありません。現在のデータが一秒前のデータによって決定されていると言おうとしても、その一秒前のデータもまた、より過去のデータによって決定されています。もし世界の誕生の瞬間があるなら、過去への遡及はその誕生の瞬間にまで至ることになります。そして世界誕生時のデータと自然法則があるなら、その後のどの時点のデータも決定されるということになります。

この過去への遡及によって、分岐点の位置もまた、どんどん過去に移されていく。現在のデータが一秒前のデータによって決まるのなら、現在における分岐は真の分野ではなく─そこで可能な技とされていたのは、現実に選ばれる技を除き、どれも可能なものではなかった─ひとまず一秒前のデータがより過去のデータによって決定されているのなら、分岐点はさらに過去へ移ることになり、結局は世界の誕生時に行き着く。

それでは真の歴史の分岐は、世界誕生の瞬間にあるのか。世界が誕生する瞬間に、可能なたくさんの初期状態のうちのただ一つが選ばれるのか。もしそのように考えるのなら、分岐ということが意味を失う。世界を誕生するよりも過去の世界というものはないからです。分岐という考えが意味をもつには、ある同一の世界から、それぞれに異なる可能な世界への変化が考えられるのでなければなりません。

私たちの住むこの世界の初期状態をS1として、その他にも、S2を初期状態とする世界が可能であったとしましょう。このときS1とS2の分岐点を考えることは、世界の始まりの前に時間を遡ることであり、定義上不可能なことです。それでもなお、ここに選択を見ようとするなら、それはもはや時間的な選択ではありません。あくまでも分岐という描像を採るなら、それは時間外部での分岐─極めて理解困難なもの─であらざるをえなくなります。

初期状態S1に続く歴史と初期状態S2に続く歴史は、それぞれの歴史の内部に可能性の分岐を含みません。歴史上のすべての出来事は、初期状態と自然法則によって決定されています。一方の初期状態を選ぶことはその歴史全体を選ぶことに等しく、また、歴史全体を選ぶことなく初期状態だけを選ぶことはできません。つまりこれは、世界の誕生時においてどちらの初期状態を選ぶかという話ではなく、時間とはまったく無関係に、どちらの全体を選ぶかという話なのです。だから、ライプニッツをまねて神の創造という比喩を使うなら、神が最初の世界を創り、ドミノ倒しのように、その後の歴史が進行した、と考えるべきではありません。そうではなくて、神は歴史の全体を一挙に創造した─時間の外部において非時間的に創造した─と考えるのが適当ではないでしょうか。これが、非時間的な選択ということの意味です。

自然法則の決定性をここまで強く認めると、歴史の可能性の分岐という見方は、はじめから成立しなくなります。可能性というものを未来向きの分岐によって考える理由が失われるからです。もし、この歴史の他に可能な歴史があるとすれば、それは過去において枝分かれした歴史ではなく、この歴史とはまったく別物として想定された、独立の単線の歴史です。でからもちろん分岐問題は発生しません。どの枝が選ばれるのかが決められているからではなく、個々の歴史の内部には枝がもともないからです。

物理学の基本法則は時間対称的である─その法則下にて生じうる現象は逆の時間方向に生じうる─とされます。この物理学的な事実は、この結論をさらに強化するでしょう。「今この瞬間のデータがあるなら、枯葉が十秒後にどこにあるのか、何年後にどこにあるのかも、きちんと求めることができる」ということは、物理法則の時間対象性を考慮するなら、今この瞬間のデータがあるなら、枯葉が十秒前にどこにあるか、何年前にどこにあるかも求めることができる、ということになります。

ある時点データから未来のデータが決定されるように、ある時点から過去のデータも決定される。ということはつまり、初期状態に限らずとも任意の一時点のデータさえあればそこから歴史の全体像を算出できるということになります。だから、今この瞬間の世界のデータが定まっているなら、歴史全体のデータも定まっていることになります。

ここまでくれば、可能性を分岐で考えないことの意味がよりハッキリしてきます。初期状態の選択を「時間外部の分岐」として理解する必要もありません。初期状態は歴史の他の状態に比べて、何の特権ももたないのたせから。可能な他の歴史とは、現実の歴史のある時点で選ばれたものではなく、単にこの歴史とは違う別の歴史なのです。

これは、時間非対称な因果的見方との訣別でもあります。あらゆる出ごとにはより過去に原因となる出来事があるという見方は、因果的な決定が未来向きにのみ成り立つことを前提にしているものです。時間対称的な決定性を、こうしたイメージで捉えるべきではないのです。とくに過去から未来へと向かう因果的な作用のイメージのもとで。いま考慮されているのは、任意の二時点のデータ間に常に、どちらかでも他方を導くことのできる法則が成立している、という状況です。こうした法則が成り立っているとき、ある時点から別の時点への作用という発想は余計なものです。すべての時点は、他のすべての時点と時間対称的な決定関係をもつのであり、ある特定の諸時点のあいだに一方向的な作用を認める必要はないでしょう。

したがって、「決定」という表現も誤解に注意すべきです。「選択」という表現がそうであるように、「決定」という表現もまた、一方から他方への作用を思わせるからです。時間対称的な決定性のもとで、「世界の初期状態によって現在の世界の状態が決まる」という言い方を認めるなら、「現在の世界の状態によって世界の初期状態が決まる」という言い方も、まったく同様に認めなくてはならないでしよう。もし後者に違和感があるなら、それは、「決まる」ことを「決める」ことと、つまり、決定関係の成立を因果的な作用と混同しているためです。

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