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2017年9月25日 (月)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(7)

7.現実主義と可能主義

このような多世界説のような馬鹿げた考えをせずに、現実の歴史だけが実在すると考えるのがよいのでしょう。

可能世界意味論には、可能主義と現実主義と呼ばれる立場があります。可能主義は、多世界説に類するもので、すべての可能世界は対等に実在するものと考えます。また、これに対して、現実主義によれば、ただ一つの世界、すなわちこの現実世界だけが実在し、それ以外の可能世界は非実在的なものだとされます。一般的には、可能主義が異端視されるの対して現実主義には多くの支持者があります。

可能世界が現実世界内の構成物だとするなら、その素材は、現実に存在している何かです。しばしば候補としてあげられるのは、言語的具体物としての文(インクや音波によって形成された)や、言語的抽象物としての命題(あるいは性質)、時空的位置を占める物体といったものです。つまり、可能世界とは、文や命題の無矛盾な極大集合であったり、あるいは粒子の時空的配列だったりするわけです。

このとき可能世界を文の無矛盾極大集合とみなす場合、その集合が無矛盾であること─東京タワーが赤く、勝つ、東京タワーが赤くないような矛盾がないこと─をいかに定義すればよいのか。それぞれの文の表わす事態が両立可能であるという定義は循環的なのです。時空点上での素材の配列も同様で、現実以外の可能世界としての配列は、実際に素材を並べ替えてされを作ることができない以上、可能な配列として概念的に志向せざるを得ないことになります。

こうした問題提起の裏には、可能世界はどうして「世界」なのかという問題があります。可能世界は世界だからこそ、こちらの世界ではなくてあちらの世界が現実だったかもしれないという仕方で、この現実世界と並び立つ。しかし、可能世界が現実世界の構成物であり、とりわけそれが、ありえた世界の表象にすぎないのだとしたら、それは現実世界と並び立たない。例えば、可能世界が現実世界内の文の集合であるなら、それは決して世界ではないのです。可能世界がそもそも世界でないなら、それは可能な世界でもない。それは、ある可能世界がこの現実世界に代わって現実となることは、可能世界が世界でない以上、不可能だからです。世界にとって代わられるのは、対等な存在としての世界だけであり、現実世界内の構成物にその役目は果たせないでしょう。

「ないのにある」と表現した可能性の本質がここにあります。「ないのにある」ものとしての可能世界は現実には「ない」が、それは「ある」ことが可能である。そして、もし「ある」ならば、それは完全なる世界であるでしょうし、現実世界と対等な、もうひとつの完全なる世界だからこそ、それは現実世界に代わり得るのです。ここに、現実主義的な可能世界の定義が循環する理由のひとつでもあるのです。可能世界の定義の中で「可能」という言葉が再度使われるのは、「ないのにある」ものとしての可能世界の、対等性をひきいれるためです。かりに、この現実世界を文の無無旬極大のひとつとみなしてしみましょう。このとき可能世界はもうひとつの極大集合となります。両者はともに極大集合であるので、表面的には対等に見えます。しかし、極大集合としての可能世界が現実世界の一部分であるなら、それは現実世界と並び立つことは別の極大集合とは一致しません。しかし、循環的定義によれば、可能世界と対等な極大集合は現実には「ない」、しかし「ある」ことは可能です。可能という言葉をもちいることで「ないのにある」というものが再帰するのです。

このような循環に陥ることなく、現実主義を首尾一貫したかたちで理解するためには、可能世界が文字通りの意味で「可能」な「世界」ではないことを認めるしかない。例えば、可能世界は世界ではないし、何らかの可能なものでもない。現実世界だけが世界であり、現実世界だけが真に可能なものであり、事実、現実世界だけが実在するのです。

現実主義の以上のような困難を、可能主義は以下のようにして克服します。可能世界はもちろん世界であり、本当に実在している。私たちのいる現実世界もそうした可能世界の一つであり、この現実世界と他の可能世界は、世界としては対等です。こうして可能主義によれば、「現実」は「今」や「私」と同じ自己反射的な指標となります。つまり、どの時点もその時点から見れば「今」であって、どの人物もその人物から見れば「私」であるように、どの可能世界もその世界から見れば「現実」です。「現実」とは、その語の使用者が住んでいる世界のことになるということです。

現実以外の可能世界は、それが世界であるからこそ、この世界に代わりうるものとなります。可能世界は現実世界の一部ではなく、現実世界と同様、それ自体としてひとつの全体なのです。私が今文章を書いている代わりにそばを食べていることも可能です。ということは、私の対応者が今と同じ日時にそばを食べている世界が実際にあるということです。実際にあるからこそ、そちら側にいる「私」は本当にそばを食べているわけです。抽象的構成物としてのそばではなく、味も香りもある具体的実質としてのそばが、そこでは現実に食べられています。

もしすべての可能的歴史が実在するならば、結局それぞれの歴史において単線的決定論が成り立ちます。この世界のこの私が今そばを食べていないのであれば、その私が今そばを食べている可能性はありません。世界内のあらゆる個体は、その個体そのものとして、実際に持たない別の性質をもつことはできないです。

可能主義は、現実以外の可能的世界が世界であることの意味を十全に生かすのですが、それらが、この現実世界の別の可能性であることについては、そうではない。他の可能性にいる私が私の対応者に過ぎないように、他の可能性は現実世界の対応者に過ぎません。他の可能世界は、この現実世界そのものについての可能性を表わすものではなく、この現実世界に似た独立自存の世界です。

結局のところ、現実主義と可能主義のいずれかに安住するなら、分岐揉んだ巣は表面化しません。現実主義においては、可能的なものは「ない」。可能主義においては、可能的なものはたんなる「ある」。「ないのにある」ものとしての可能性は消えて、歴史の枝はそれぞれ両極端な意味で単線化することになります。しかし、これは、可能性を可能性以外のものにすることで問題を回避しています。

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