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2017年9月24日 (日)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(6)

6.単線的決定論

法則的決定論が歴史の分岐を消し去ったように─可能性の枝はすべて刈り取られ現実の幹だけが残る─多世界説もまた歴史の分岐を消し去ります。とはいえ多世界説の場合、単線の歴史は一つではありません。それは複数実在します。今、私がいる歴史も、そうした歴史のどれか一つとなります。多世界説によれば、今ここにいる私がこれから「病院に行く」可能性と「病院に行かない」可能性の両方をもっていると考えることはできないでしょう。私はすでに歴史Aか歴史Bのいずれかにいるのです。歴史Aの方にいるなら、私は病院に行くだろうし、歴史Bの方にいるなら、私は病院にいかないでしょう。ただし、私がまだ歴史内容の重複部分にいるなら、自分がどちらの歴史にいるのかをその時点で判別することはできません。

この描像下での意思決定とは、私的な予言のようなものです。これから何をしようかと考えるのは、これから何をする歴史に自分がいるのかを当てるということに近いです。ふだん、私たちが自然に行為し、自分の意志で動いていると感じるのは、この予言がしばしば当たるからです。

そのように考えると、この描線は一種の決定論ではないか考えられるということです。未来はすべて決まっていて、私たちにできるのは、それが良い未来であることを祈ることだけではないのか。ここで、二つの決定論を区別します。ひとつは決定性によって歴史が単線化するもの、もうひとつは単線性によって歴史が決定化するものです。前者については、一般的にいわれる決定論と考えられます。物理法則等によって何が起こるかが決まっているなら、現実以外の可能性の枝は消失してしまいます。ひと通りの現実が決められてしまうことによって、現実以外の可能性の枝は消失してしまうでしょう。したがってひと通りの現実が決められたようになって、歴史は単線になります。これに対して、後者の場合は、まず単線の歴史があって、その歴史が単線であること、そのことによってのみ歴史が決裁される。この意味で運命論とか宿命論と一般的にはよばれるものです。ここでは「単線的決定論」と呼ぶことにします。

この単線的決定論では、私たちが決定内容を認識できるか否かにかかわらず、また法則性も必要とせずに、あらゆる時点で何が起こるかは決まっているということです。

多世界説をとるならば、あらゆる可能性は現実化されます。すべての可能的歴史が、それぞれ単線の歴史として実在することになります。だから、どの可能的歴史を見ても、その歴史内の人物にとっては単線的決定論が成立しています。何が起こるか分からなくても、起こることは決まっています。

単線的決定論の語義を確認してみましょう。法則的決定論と対置される種類の単線的決定論(歴史の単線性が潜行する議論)を狭義の単線的決定論とし、この狭義の単線的決定論とそうでない単線的決定論(実在的にも可能的にも歴史を単線とすねもの)を合わせて、広義の単線的決定論とします。このとき狭義の単背的決定論と対置した法則的決定論は、法則性によって歴史が単線化する点で、広義の単線的決定論の一部となってしまいます。法則的決定論では、実在的・可能的に残るのは単線の歴史です。多世界せつにおける樹形図はすべての枝の実在性が認められることで、個別の単線にばらされてしまいました。ばらされた個々のたんせんをみると、そこには様相はなくて、ある単線について、それが別様でありえたらということを考える余裕がありません。

可能世界意味論における対応者との関連で考えてみましょう。この文章を書いている私が歴史Aのほうにいるなら、歴史Bの方にいるのは私と対応者関係をもつ私以外の人物です、そのような人物がいることは「私は病院に行かない可能性がある」という文の意味となるわけです。その人物は私とそっくりな性質を持つけれど、私ではない。だから、歴史Aに内属する私を見るなら、彼が歴史Aにいない可能性─病院に行かない可能性─はありません。というより、ここで「可能」という表現を用いることがそもそも間違いです。同様に、「彼が歴史Aにいることは必然だ」と言うこともできない。一つの単線的歴史だけを見て可能性や必然性を語ることは、もはや意味をなしません。彼が歴史Aにいることは、偶然でも必然でもなく、たんなる事実です。

多世界説では、私の対応者がどの歴史で何をしようと、この歴史にいる私については、すべての事柄が決まっています。(本来ならここでは「必然」という表現が使えないのと同様、「決まっている」という表現も使えないはずだけれども、単線的決定論を決定論と呼ぶのと同じ意味において「決まっている」。)私についてだけでなく、この歴史内のあらゆる存在者についても同じことが言えます。多世界説は、可能的対象の実在化と引き換えに、個別の歴史内のある個体についての可能性を問うことを禁止します。ある個体とその対応者ではなく、ある個体そのものの可能性を問うことを無意味にします。しかし、これは結局、可能性という概念を常識とはまるで違ったものに変えてしまうことになると著者はいいます。

感覚的な言い方をするなら、反事実的な可能性の本質は「ないのにある」という点にあります。すなわち、現実としてはないが可能性としてはある、ということをどのように理解するかが問題なのです。現実に私が病院に行くならば、私が病院に行かない歴史はない。しかし可能的にはその歴史はある。。それはたんに、「病院に行かない」という表現によって心理的に思い描かれたものではありません。そちらの歴史もまた、現実の歴史と同様に完全性を持っている。だからこそ、それは非現実のものでありながら、現実になりえたとみなされる、と著者はいいます。

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