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2017年9月27日 (水)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(9)

第2章 自由意志

自由意志や両立的自由についての諸説を踏まえて自由とは何かを考えていきます。その土台となるのは、前章の分岐問題です。

1.概観

自由と決定論に関する非両立論者と両立論者の対立は、有名なマクタガートの時間論をめぐるA系列論者とB系列論者の対立に似ていると著者はいいます。非両立論者は伝統的な意味合いでの「自由意志」─他行為可能性や起点性を持つ─を擁護するもので、両立論者に自由意志を説明することになります。彼等は、自由意志こそが人間のせいかつにおける不可欠な基底であると信じているからです。

このような自由意志の実在性の擁護を自由意志説と予備、その支持者を自由意志論者と呼ぶことにします。自由意志論者は、必ずしも一致はしませんが非両立論者の代表と言えます。この人たちがA系列論者になぞらえるのは、それだけではありません。彼等が相手となる両立論者の道具立てを必要とするのに対して、相手は必要としていないという非対称な関係です。すなわち、両立論者が要請する自由の条件は自由意志論ものにとっても重要であり、B系列論者が要請する時間的順序関係(現在の推移)を重要と考えます。

今日では自由意志説と両立論の議論は複雑化していますが、著者は自由意志という両立的自由の支えの必要性を巡る対立に単純化してみようとします。著者は、議論を複雑化させている要因の一つとして、道徳的責任論と組み合わせられて議論されてしまう点を指摘します。つまり、ある想定状況における行為を有責なものとみなすか否か、という日常的・直観的な判断を土台にして、その判断に合うような責任概念を構築し、それに準ずる自由概念をさらにこうちくするというものです。こうした議論には一定の有用性がありますとくに法の基礎付けにおいて、実践を追認することができます。両立論における様々な自由の定義は、責任に関する実践に調和するものですが、自由意志論者はそうした定義の有用性をほぼそのまま承認できます。

多くの自由意志論者にとって、「もし決定論が正しいなら人々は有責であるはずがない」という直観は、自由意志の実在を擁護するとても強力な動機になるでしょう。とくに重要なのは自由意志説の核心となる他行為可能性と起点性にどのような評価を与えるかです。自由意志の源泉をこれらの特徴に求める議論は次のような批判を受けてきました。─未来の諸可能性の一つが、過去のあり方や自然法則などに縛られずに現実化するという自由意志への見方は、自由意志をたんなる偶然と区別のつかないものにしてしまう。自由意志がそのようなものであるなら、自由意志に基づく行為に責任を認めることはできない─というものです。これに対して他行為可能性と起点性の源泉を「行為者」の能力に求めるならば、ある自由な行為が有責であるのは、他ならぬ行為者が原因とになって行為がひき起こされたからであり、その因果性は、出来事の自然科学的な因果性とは異なるといいます。

 

2.意志と主体

自由意志論者が自由意志の実在を直観しているからと、定義や説明を拒否するのであれば、議論は平行線を辿ることになります批判者がどれほど自由意志の理解不可能性を訴えたとしても、自由意志論者はそれを非実在性の証とは認めず、ただ自由意志の定義不可能性の訴えとして受け止めるでしょう。このとき直観の対立は、数の力によってのみ調整されてしまうかもしれません。

ある行為が自由であることの根拠を、その行為者の主観的心理状態、いわば一人称的な「自由感」に求める見解はほとんど支持されていません。単純かつ決定的なのは、自由感とは何なのかという問題で、われわりは身体運動の感覚(自分の身体が動いていることの感覚)をもち、たとえば、他人に手を動かされている状況で自分で手を動かしている状況との区別を付けられるが、その際に何か、行為の自由─とりわけ自由意志の働き─を裏付けるような特有の感覚があるでしょうか。

「自分で」手を動かしているとは、主観的感覚の観点から言うなら、外部からの物理的強制を感じず、自分の手が動いていることを感じ、いまから手がどう動くのかをかなりの程度まで予測できるです。さらにその予測される運動が、合理的な目的や事前の計画にかなっていればなお望ましいものです。しかしここに、分岐問題と交わるような選択の自由は含まれていません。単線的かつ法則的な決定論とも、これらの感覚は調和します。そして、手を動かすという行為の起点が自らのうちにあったという感覚や、手を動かさない可能性もあったという感覚もまた、自由を根拠づけるものではありません。それらは文字通り「感覚」に過ぎず、行為の起点が本当に自らのうちにあったことや、他の可能性を本当に選べたことを保証してはくれません。

自由意志論者の中には、意志に言及することなしに、自由の実在性を擁護する論者も多いそうです。つまり、自由意志説とほぼ同じ狙いをもった主張を、自由な「意志」という概念に依拠せずに主張する論者です。その方針を採る理由は、大きく二つあるでしょう。第一に、物理主義的な決定論の台頭が挙げられます。意志の自由をどれほど擁護しようとも、物理的な身体運動が決定されているならば、私たちの自由は脅かされるからです。第二に。「行為をひき起こす意志」という図式自体への抵抗があります。もし行為が意志によってひき起こされるなら、意志は何によってひき起こされるのか。それは「意志の意志」によってでしょうか。こうした問答は原因の無限後退を要求するように見えるのです。この後退の中で持ち出されるのが「人間」や「主体」といった概念です。この「人間」という概念の内容や自由との結びつきを、さらに考えなければならなくなるし、人間より後退する可能性もあります。そこで著者は、「意志」「人間」「主体」といったことをいっしょくたにして併用する。つまり、行為を自由にひき起こすものに与えられた名前と考えることとします。重要なのは、この場所に何かが収まることを多くの人が欲するという事実であって、それがどう呼ばれるかではない。そしてさらに重要なのは、その何かが、諸可能性からの現実の選択や、因果的な起点性にむすびつけられることです。

「他の行為もできる」という点に自由の源泉を求める議論は、自由を責任の問題と関連づける上でしばしば重視される。もしある犯罪者が当該の犯罪行為をしないことができなかったとするなら、その人物の責任を問うことは不合理ということなります。このとき自由な行為とは、他の選択肢の存在によって初めて意味をもつものとなるという考え方もあります。この「できる」という表現は、「他の行為がある可能性がある」ことに比べて、自由に関する直観的な共感を呼び起こすものと言えそうです。この立場においては、行為者因果説では、行為者こそが第一動者(何ものにも動かされずに、他のものを動かす主体)であり、それゆえ行為者は起点性をもつものです。すなわち行為者は新たに因果連鎖(行為)を開始する子ができる、とされています。

このような起点は原因遡及の臨界点─それ以上の原因を辿れない点─が、重なってくるように思います。そうなると原因遡及についての私たちの認識能力の限界が、起点性の識別ができるかどうかに重なってくることになります。

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