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2017年9月17日 (日)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(1)

序文

著者は序文で著作の全体像を概観します。浩瀚な未来図として、人間の脳の常態を見ることで、その人物の直後の行為を高い確率でよそくするということです。この際に、脳状態に基づく予測が、その人物の内面における意思決定の自覚にも先立つということです。つまり、現在の脳状態を見ることで、その後の行為だけでなく、行為者の内面的な意思決定を予測することができることができるということです。このことは、次のように言い換えることができます。人間がこれからどんな行為ををするか、どんな行為をしようと思うかは、その人物の脳によって決められる。

それはつまり、私の行為を決めているのは私自身ではなく脳であり、それゆえ行為選択の起点─そこから可能な諸行為のひとつが現実に開始される─としての自由意志など存在しない。このような見解は、行為の責任を問う際に、どんな悪事であっても脳がやったとみなされるということになってしまう。

このように脳が人間の行為を決めるというような、人間は脳に操作された不自由な存在であるといった図式は不正確なものであることを見ていく。まず、起点としての自由意志ということにいて、脳が決めるということは、その起点を脳にうつしたということで、構造は同じです。脳を操作するという図式も同様で、脳を操作する何らかの起点があることになります。例えば、意志や政治家の判断によってある人物の脳が操作され、よりよい社会が実現されたとして、その判断はどのように行われたのかということです。医師や政治家の脳によってでしょうか。いったい誰(何)が起点となって、未来のあり方を決めたのかということになるわけです。

この選択の起点となるような何かは存在し得ないのではないか。それが著者の主張といえます。そこから、不自由なものとしての人間から無自由なものとしての人間へと視線を移していこうとします。

著者のそのための議論として、したいことを妨害されずにする自由と、何をするかを自ら決める自由との区分を始めます。前者は社会的に承認される自由例えば恋愛や結婚の自由で、後者はいわゆる自由意志にたいおうするものです。私が水を飲みたいと思い、何の妨害もなしに水を飲むことができたなら、前者の意味で私は自由です。他方、水を飲むことに決めたのは私であり、私以外の何ものかによってその意志をもたらされたのでないなら、わたしは後者の意味で自由と言えます。

この自由意志の働きが認められるのは、私がほかならぬ自分の意志によって行為するときです。自由意志の存在を擁護する人々が確保したいのは、その意志が行為選択の起点という意味での起点性であり、さらには、現実になした以外の選択も可能であったという意味での他行為可能性です。それゆえ自由意志はしばしば、催眠術のような個別の意志操作にとどまらない、世界が何らかの意味で決定論的であれば、そのことによって自由意志が損なわれるというこになるでしょう。

これに対して、したいことを妨害されずにする自由というのは、決定論的世界においても成立可能です。例えば、私の行為や意志が、物理学や心理学等の法則のもとですべて決定面的に生じるのだということになっても、私が水を飲むことを意志して妨害なしに水を飲んだなら、私は自由に水を飲んだといえるでしょう。他方、水を飲むことことに決めたのは私であり、私以外の何ものかによってその意志をもたされたのでないなら、私は後者の意味で自由です。もう少し、詳しく見ていきましょう。自由意志の働きが認められるのは、私がほかならぬ自分の意志によって行為するときです。自由の存在を擁護する人々が確保したいのは、その意志が行為選択の起点となっという意味での起点性であって、さらには、現実になした以外の選択も可能であった(それ以外の選択をすることができた)という意味での他行為可能性です。それゆえ、自由意志はしばしば、世界の決定論的なあり方との関係で考えられてきました。すなわち、もしこの世界が何らかの意味で決定論的、それは何が起こるかすべて、あらかじめ、決まっている、のてせあるならば、そこに自由意志はないというわけです。これに対して、したいことを妨害されずにする自由というのは、決定論的世界においても成立し得るのです。たとえ私の行為や意志が、物理的法則や心理的な規則のもとですべて決定論的に生じるのだとしても、水を飲むことを意志して妨害なしに水を飲めたのであれば、私は自由に水を飲んだと思うでしょう。

このようなしたいことを妨害されずにするという、決定論と両立できる自由のことを、著者は「両立的自由」と呼びます。両立的自由は決定論と両立することが可能な自由であって、非決定論とは必ずしも衝突するとは限りません。両立的自由とみなされものの大半は決定論的世界と非決定論的世界のどちらにおいても成立します。それゆえ、ある非決定論者が自由意志の存在を認めつつ、同時に、両立的自由の存在も認めることにとくに矛盾はありません。ただし、自由意志の擁護者にとっては両立的自由は副次的な自由です。

自由についての論争は、両立的自由と自由意志の二つの軸で、展開されてきたと著者は言います。両立的自由こそが自由の中心的概念だと考える論者は、自由意志を非現実的な幻想と見なすことが多いですが、自由意志の実在を認めることは可能です。これに対して、自由意志の擁護者は、両立的自由が実在しないとは考えていません。彼らは、両立的自由はたしかにありますが、表層の自由に過ぎず、自由意志ののようなより深いじゆうがあってこそ両立的自由も真の自由の発露と見なすことができると考えています。このように、両立的自由と自由意志の対立は、一方が他方の実在を否定するという単純な図式の対立ではありません。真の自由とは何かをめぐっての主導権争いといったところでしょう。

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