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2017年10月16日 (月)

選挙雑感

そもそも政治というのは、「折り合い」で、Aという主張とBという主張があって、議論が始まる。その議論の中で、Aの側の人はBの人がなぜBという主張をしているのかを学び、Bを少しずつ理解する。Bの側人もAの主張を学んで、理解する。さらに、AにもBにも与しないCという少数者や少数意見があることを知り、なぜそれが見過ごされていたかも学ぶ。そういう議論を踏まえた上で、現実的な結論をもたらすために多数決をする。そのプロセス、多数決という結果が民主主義なんじゃなく、多数決にいく「途中」が民主主義の本質だ。(小池さんのいうアウフヘーベンというのは、政治の場合、このような議論(熟議)をするということになるのではないか。)

と考えると、相手と自分たちを敵味方に分けて罵り合うような党派的な行動は、民主主義の理想の姿からはほど遠いと思ってもいい。選挙を戦いになぞらえて、敵の大将の首を奪うこと(政権を奪取すること)自体を目的することは、目的と手段の取り違えと考えることは妄想だろうか。

ただ、争点といって対立を煽るのではなく、「人にはいろんな目的があっていい」「社会にもいろんな目的があってしかるべきで、もう少しゆるやかに考えましょう」という多様性を確保する。相手を尊重する。それこそがリベラル(自由)ではないか。多様だからこそ、社会は良い発展を遂げられる。自由な社会ということを、そう考えるのは、世間離れした空論だろうか。表面的にけれど、選挙におけるそれぞれの主張を仄聞していると、あさましいと正直思ってしまい、現実的な対応をいけないときに無責任になってしまうのだろうけれど。

一部の階層とか集団(企業、宗教団体、組合、諸団体、その他それぞれに既得権益をもつ人々)の利益を代弁し、それを政策として発表し、それを実現させる政治をしようとすると、選挙は戦争に例えられるようになり、自分が有利になるために手段を選ばず、フェイク・ニュースの応酬や一票の格差が平等でないということになったりする。

議員が熟議をすれば考えを変える可能性があるし、そうであれば公約はそれほど意味がないから、政策を信任する選挙などは自由でも民主的でもないことになる。そこでできるのは熟議ができる人を選ぶということになるのではないかと思う。

そこでできるのは熟議ができる人を選ぶということになるのではないかと思う。その場合、何を話しているか(政策、政治的主張)ではなくて、いかに話しているか(お仕着せや借り物ではなく、ちゃんと自分の言葉で話すことができる、しかし、そういう人は、ほとんどいないが)をポイントにすることになるのではないかと思う。

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