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2017年10月 2日 (月)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(13)

8.それぞれの値段

著者は思考実験を試みます。すなわち、人間に劣らぬ知性をもった異星人が、実際の人間の生活を見ずに、人間の書いた哲学書などを大量に精査したとする。その結果、自由と決定論をめぐる論争に対して、どのようなことを言うだろうか。

異星人は人間社会で倫理を維持させることに利害関係がないので、倫理に反する見解も、事実の追求において躊躇なく掘り下げていく。例えば、分岐問題について、諸可能性のひとつを現実化する力を持った出来事は、歴史の中に時間的に存在しえない。人間の行為によってであれ、他のいかなる自然現象によってであれ、それによって諸可能性の一つが現実化されるというとはありえず、このことは法則的に決定論の正否にかかわりはない。それゆえ、他行為可能性と起点性をあわせもつものとしての自由意志は、それが偶然の一種でないならば、実在しない。

このような見解を、ここではEと呼ぶことにします。このような見解は社会が倫理的にたちゆかなくなるようなものなので、人間であれば、賛成しないでしょう。しかし、異星人にはそんなことを気にしません。ここで、Eの内容を吟味すれば、自由意志か実在か非実在かについても、自由意志が責任の帰属に必要か否かについても、中立的であることが分かります。

社会に現実に生きる人間は、このような態度をとることは難しいでしょう。社会が倫理的であり、様々な規範が守られていることによって、自身の生きる場所を得ています。しかし、この世界が倫理的である理由や、そうでなければならない理由を与えるような形で、つまり、自由に対する規制の側から、自由や決定論について考えるのは難しい。すなわち、今日までの社会が倫理的であり、そして社会がこれからもつねに倫理的でなければならないのなら、倫理が可能であるための有責性の基盤(自由)を人間は普遍的にもたねばならないか、あるいは有責性なしでの倫理の基盤を新たに人間は見つけねばならない。だが、ごく単純な事実として、社会がこれからも常に倫理的でなければならない脱倫理的な(そして自然的な)理由はなく、それゆえ、倫理を可能にするような何かの性質・能力を人間がもつことに必然性はない人間が今日、自由の理念をもっていることは、世界がその理念を可能とするような構造を必然的にもつことをまったく保証しない。

進化論的な生存競争の観点から、ある種の利他行為に関する人間の性質・能力が自然淘汰において有利だとしても、これは変わりません。今日の人間たちには倫理的な生存戦略といっても、その戦略自体は倫理的でも非倫理的でもなく、生存に有利であるから、それに従って社会の倫理ができているということです。そもそも、自然界は、人間社会が倫理的であれ非倫理的であれ、存続することに関心がなく、明日人類が滅んでも、それだけのことだからです。

Eがもし正しいとして、倫理の維持を望む一般的人間にとって、安上がりなのは、どのようなケースか、著者は様々なケースを考えてゆきます。

そのなかで、カントのニ世界論はきわめてコストの高い回答ということになります。自由意志も偶然も働く余地のない決定論的世界(現象界)のほかに、自由意志の働くもうひとつの世界(仮想界)が必要なのだから。この要請はカントにとって、倫理が可能であるための超越論的条件です。しかし、社会が常に倫理的であるなければならない理由はないという単純な事実の前では、カントの回答はコストが高いだけでなく、異星人や自然界のような倫理と関係ない存在にとっては説得力をもちません。

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