無知の知 考 その3
ギリシャ哲学というと、ソクラテス、プラトン、アリストテレスばかりが取り上げられる。当時のソフィストというディベートやプレゼンのテクニックを追求する人たちに対して、その内容の方に目を向けさせたのがソクラテスで、他の2人はその志を引き継いだのが哲学というストーリーが、そこにある。不思議なことに、そのソフィストたち、プロタゴラスやゴルギアスといった人々、また、この3人の前でも後でも哲学者はいた(ピュタゴラス、パルメニデス、プロティノス)のに、その人たちの著作は断片しか残されていないし、それも発掘されたもの。これに対して、プラトンは主要な著作の大半が残されているし、アリストテレスも残された著作は多く、イスラムを経由して近代ヨーロッパに伝えられた。
そこで、ソクラテスは、本人が著作をしなかったが、プラトンやクセノフォンといった後代の人々が在りし日のソクラテスの姿を著した。それをソクラテス文学という。そのように、この3人は物語がつくられ、それは実証主義的な学問の目でみると歪みがつくられたのかもしれないが、そこから西洋哲学はスタートしているのではないか、という。
例えば、「無知の知」だ。無知とは知をもっていないということだ、そのないということを持っているというのは、なんじゃこれという矛盾ではないか。無知ということを知っているということは、無知をしらない人もいるということで、知らないということを知識として知っている。つまり、知らないということはどういうことかを、知っている。ということは、無知を知らない人は自分が無知であるかどうかを判断できないが、知っている人は判断できるということだ。そんなことは、現実にできっこない、できるとすれば全知全能の神様ぐらいだ。したがって、キリスト教の神学では、神の全能をあらわすものとして、そういうことを言いだす人が出てくる。もし、それを誰か個人、例えばソクラテスが無知を知っているなどというのは、不可能なことを言う傲慢でしかない。
プラトンの「ソクラテスの弁明」は19世紀に再発見されたものだという、そこに、ソクラテスがアテナイ中の知者をまわって、彼らが確かな知をもっていないのに自分は知っていると誤解していることに気づく。そこで、ソクラテスは知ということに対して謙虚になる姿勢、自分は完全には知っていないことを自覚するにいたる。自分が知らないということを自覚することと無知の知とは、同じもののように見えるかもしれないが、実は大きな違いがある。そこに誤解が生じやすくなることになる。むしろ、次のような論語の有名な一節の方が近いのではないか。
子曰く。由よ、汝にこれを知る事を誨えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為す、是知るなり。
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