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2017年10月 9日 (月)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(20)

3.二人称の自由

決定論内部で峻別可能な「できる」「できない」の区別があったとしても、その区別をただちに「自由」「不自由」の区別に置き換える議論には、他者への反応的態度に導くものが介在しなければ成立し得ない、と著者は言います。

著者は、他者が他者であること自体に求めます。それは、他者の人称的な不可視性に反応的態度への誘因に見出されます。この実践上の反応的態度とは、自分自身や見知らぬ他者を含めた主体一般への態度であると同時に、何よりも目の前の特定の他者への態度です。それが道徳的態度に移行するには主体の一般化が不可欠です。つまり、他者にとっての他者としての自分や、まったく私と接点のない不特定の他者をも含めた主体に対する反応的態度を育てることで自責や公憤ということが生じると著者は言います。この反応的態度源泉はあくまでも目の前の具体的な他者であり、それこそが第一義の主体です。この観点に立つとき、私自身や見知らぬ他者といった主体は、事後的に構成された抽象物としての主体ということになります。

雪や金魚や文房具に対しては怒りを抱くことはないけれど、われわれは他者という対象に対しては怒りを持つのは、その対象に対する最上級の存在論的承認ということができます。人々がしばしば、無視されるよりは憎まれることをむしろ望むというのは、そこに理由があるということでしょう。その一連の過程は、不可視な内側があるものとしての他者の承認です。その承認は、単なる物体としての身体運動を自由意志に身体運動に変えるのです。

同じことは私についても当てはまります。ある一人称主体としての「私」が私自身を自由と見なすとき、つまりは、私が私のある行為を自由意志によるものであったと理解するとき、私は私を他者としているわけです。他者にとっての他者であるものとして、私を見ているというわけです。ここでは、私が私を他者として見ることで、自由意志の非存在を不可視とする領域を確保できる点が重要です。

私が私の一人称経験のみを見る限り、そこに不可視のものはありません。私が他者に腹を立てるのは、何か観察可能な立腹すべき事実があることに加えて、人称的に不可視な領域(内面)があり、そこに立腹すべき事実、例えば悪意による行為選択を想像するからではないかと考えられます。そうであるなら、自由意志というのは、本質的に二人称的なものであり、二人称性の承認自体が自由意志の承認と結合しているということになります。いわば、自由とは他人のことなのです。これを著者はニ人称的自由と呼びます。

他者に不可視な領域があることは、他者の外面的な行動が不条理であることとは別のことです。立腹すべき事実の想像の場合には、他者の行動に何らかの規則性を見出そうとします。それは合理性の承認に結びつくもので、例えば、性格、好み、信念などとして理解されることになるものです。もし、他人の行為が規則的に、機械のように、全部分かってしまうのであれば、立腹すべき事実を想像することはできなくなります。

このような構図は、自己知覚理論を図地反転させたものに当てはまります。自分自身を他者として見ることで自己認知の材料を増やすのではなく、逆にその材料を減らす、つまりは自分自身に不可視な領域を設ける、これによって、自己を自由と見なすことができるようになるからです。行為者がある行為の理由を考えることには二つの意味があると著者はいいます。一つは、行為者自身にしか観察できない内面的過程を言語化することで、外面的(行動主義的)な行為の記述を詳細に補うこと。すなわち、一般的な意味での動機などょ語ることです、もう一つは分岐問題との関連において、そのような内面的過程のうちに行為の本当の要因が実際にはなくても、他者から人称的に秘匿されている内面的過程の存在が示されることで、そこに本当のよういんがあるかのように自他に信じさせることできるわけです。

著者はまとめます。人称的に不可視な他者の内面のうちに行為の本当の要因があると信じること─実際にはなくてもあると信じること─、それによって私は他者を自由な主体と見なす。すなわち他者を、両立的自由をもつだけでなく、諸可能性の選択をなす自由意志をもつものと見なす。そして自分自身をも、他者にとっての他者とみなすこと─そして他者からも他者として扱われること─によって、私は私自身を自由な主体と見なす。いわば認知的エラーとそのエラーの存在への無知が、人間を自由な存在としている。

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