無料ブログはココログ

« 青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(11) | トップページ | 青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(13) »

2017年10月 1日 (日)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(12)

6.両立的責任

フランクファート・ケースを考えてみましょう。ある行為者がMaをなし、その後、妨害を受けることなしにAを実現したのですが、その行為者がMaではなくてMaをなしたとしても、その行為者はAを実現してしまう。なぜなら、その行為者がどのような意志をもつのか監視している人物が存在し、、行為者がMa'をなしたときに限り、それを取り消して行為Aを決意させるような強制を行為者に対してなすことなるからです。そのため、この行為者がAを実現しなかった可能性はないことになります。フランクファートはこの事例をもとに、在る行為が有責であるために他行為可能性は必要ないと述べました。というのも、現実に生じた出来事、つまり、Maののち強制なしにAを実現したこと、を見るなら、行為者はAの実現に関して有責だと思われるからです。

これを殺人事件に当てはめて考えると分かり易いかもしれません。人物X、Y、Zがいて、Yに殺意を抱いていたZが、同じくYに殺意を抱いていたXの様子を観察し、XがYを殺そうとしなかったときにのみ、Xの決意を操作する、つまり、Yを殺す決意をさせる、といった場合です。この状況下でXは、自分自身の決意でYを殺した場合でもYを殺さない可能性(他行為可能性)はなかったとなかったことになるということです。強制のなさを意味づけるのに、強制によってある行為をなしえなかった反事実可能性を、決定論的世界では、確保することが困難です。したがって、フランクファーストの事例において自由(責任)が他行為不可能性と両立するとしても、決定論と両立するとは限らない、そうであれば、この事例で両立的自由は認められないということです。

この事例の核心は、(強制なしの)MaからAに至る可能的歴史と、Maから強制を経てAに至る可能的歴史を時間的に分岐させ、Aが生じない歴史を諸可能性から消去することにあります。このようにしてAの有無に関しては「有」以外の他行為可能性はなくなります。そもそも、このケースは単線的決定論とはあいいれないかたちです。MaからAにいたる歴史が現実的であれば、Ma'から強制を経てAに至ることはありえなません。行為ということで身体的行為にのみ限るとするなら(つまり、MaやMa'を行為にふくめないなら)、この事例は、他行為可能性のなさが責任と両立しうる余地があることを示しています。

自由の規定から非決定論的な「邪魔のなさ」の条件を排除することはできます。そして、反事実的可能性の承認を一切排除することもできるでしよう。しかし、そのようにして得られた規定の有用性は疑わしいものであり、とくに、責任をめぐる倫理的実践とそれを調和させることは困難です。たとえば、身勝手な理由から殺人を犯した人物を咎めるさい、私たちはその人物に対し、今後それと同タイプの行為(身勝手な殺人)を慎むことのみを求めているわけではありません。その殺人について、それをしないこともできたのに、、それをしたことへの自責を求める。すなわち、当該の行為は避けえたと信じられていなければならず、そこでは決定論と非両立的な反事実的可能性の承認がかかけます

 

7.偶然の自由

私たちは「偶然」ということを価値のない単なるものとことしまいがちです。ここで言う「価値のない」とは、偶然によってもたらされた結果です。私たちは、偶然そのものに積極的な価値を見出すことは稀です。しかし、分岐問題に関連して、偶然の生成はかけがえのないものになります。すなわち、単線的決定論を採らずに分岐問題を回収させうる唯一のものだからです。

自由意志を偶然の一種とする見解、とくに確率的偶然の一種とする見解に対して著者は好意的にみています。この見解によれば、偶然というものが仮に存在するなら、自由意志はその一種であることによって、ようやく本当に存在することができる。偶然の一種であることは、自由意志にとって存在への限られた道である、ということなると言います。

一般に、たんなる偶然は自由の基盤にはなりえないという直感的発言における偶然は、純粋な偶然(=分岐)として思い描かれているわけではありません。それは、サイコロやくじ引きによる人工的偶然と同等のものとして想定されているようです。このようなものは、さいの目などの結果は人為的決定でないことを人々に直観させるための道具でしかありません。サイコロとは、いつ、だれがそれを振ろうと振るものの意図の等確立性の中に霧散してしまうことを人々に直観させる道具で、その目的に特化して、六つの面が同じ面積になっていたりします。「類似の出来事がもたらす結果の時間的分布」が確立の正体である、と著者はいいます。全く同一の出来事は、言葉の通り歴史上一度しか起こらないとすれば、確率とは、私たちが異なる出来事を「ほぼ同じ」だとみなす傾向性になるでしょぅ。例えば、コインを投げて表と裏が出る確率が五分五分のように見えるのは、表が出るときの投げ方と裏が出るときの投げ方が私たちにとって五分五分の比率で同じ投げ方のように見えるからです。同じことはサイコロやくじ引きにも当てはまります。これは偶然の典型例とは言えません。

もし自由意志が確率的偶然の一種であるなら、法則性の観点からも、単なる偶然ではないことになります。確率的偶然のもとで行為する人間はでたらめな乱数の操り人形ではありません。なぜなら確率的偶然の個々の事例は非決定でありながら、事例の集団は法則性を持つことができるからです。すなわち、人間は大まかには規則的に振舞い、細部においては偶然的に振舞うものなのです。一方、この集団的な法則性はも複数の人物間にだけでなく、一人の人物においても見出されます。例えば、ある人物の別々の時点における行為を集積した場合、そこにしばしば何らかの法則性が見られます。私たちは、それを「性格」と呼んでいます。自分や他者が「性格」をもっているからには、今から自分が何を行い、他者が何を行うか、まったく不明ということはありえません。ともに合理性や計画性を持った諸選択のあいだで偶然が働くことは可能であるのは、その働きが「性格」の確率的傾向に沿うからです。しかし、直観的な先入観でみれば、偶然はどこまでいっても「たんなる偶然」で、実質的働きをもたないものとして把握されているのに対して、原因は決してたんなるものではありえず、実質的働きを持つものとして把握されています。事実、無根拠な現実化としての偶然は少なくとも三人称的に観点において、主体性をもちえないように見えます。

自由意志と偶然は、通名をもたない何か同じものの、二つの異なった現われでありうる、と著者はいいます。時間分岐、すなわち諸可能性から一つの現実が生じることを、その原因のなさ、無根拠さのもとで捉えたとき、その生成はたんなる偶然とみなされるというわけです。そこには何かを決める主体も、主体に操られる客体もありません。他方それを、諸可能性の選択や、自らを生み出す力のもとで捉えたとき、擬人化を経た偶然は、「起点」とみなされることになります、これが自由意志です。

著者はいいます。自由意志は偶然の一種でありうる。とはいえ、偶然によって自由のすべてが説明されるとは考えない。偶然は通常考えられている以上に重要な自由の一成分でありうるが、それは偶然がその他の部分と共働するときに限られている。確率的法則の介在はその一例である。

« 青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(11) | トップページ | 青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(13) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(12):

« 青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(11) | トップページ | 青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(13) »