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2017年10月 6日 (金)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(17)

7.過去可能性

前節での考察は、過去が諸可能性もつことを前提としていました。しかし、可能性とは実現可能性のことであるなら、過去はすでに決定されていることだから、あてはまらないという議論があります。この同じ議論は過去だけでなく、現在にも同じように当てはまるでしょう。また、この議論の前提となっている単線的決定論が正しいとすれば、過去・現在にいての諸可能性がないのと同じに未来についての諸可能性もないことになります。そして、現実に選ばれなかった過去の可能性が消失すると考えることは、過去時点のみの可能的歴史が消失すると考えることとは異なります。過去における可能性の分岐の消失は、消失した枝の先にある歴史全体の消失を意味します。それゆえ、過去の可能性の消失は、ありえた現在や、ありえた未来の消失を含みます。例えば、人は過去になした行為について後悔するとき、過去になし得たほかの行為の可能性について考慮するとともに、そちらの可能性によって開きえた未来についても、失われた未来として、考慮して、むしろそれこそが後悔の引き金となるからです。

現実化しなかった過去の諸可能性は、今から現実化することはありえいので、もう可能なものではなくなっているでしょう。この過去の可能性はもう「ない」ですが、「あった」のであって、最初からなかったのではありません、そうでなければ過去についての反事実的な仮想のすべては、たんなる空想と同じになってしまいます、

過去の反事実的な諸可能性は、もはや実現可能性ではありません。しかし実現可能性だったものでもあります。それらは今後も瑛九に、実現可能だったものであり続けます。アリストテレスはもはや存在しませんが、彼はかつて存在していました。かつて存在したものについて語ることは、そもそも存在しないものについて語ることとは異なります。

それゆえ、過去の反事実的な可能性の枝は保持されます。現在から見た諸可能性の樹は刻々と縮小し続けますが、時制眺望的な見た諸可能性の樹は変化しません。そしいこのことは、論理的可能性に対する実現可能性の先行という見解と矛盾しません。

 

8.補遺

著者は、分岐問題を通じて、この世界は無自由な世界かもしれないと疑ってきたと言います。もしそかれが事実だとすれば、可能や必然といった様相概念を無知ゆえの錯覚として、そま原因を検討すべきと言います。

この章で様相について考察したのは、そのためでもありました。可能性というものが、すべて幻だとするなら、その幻の源泉のひとつは時間の動性にあると。ある全体が他の全体になることを動的に捉えることなしに、可能性の幻視は生じないと。

過去から未来へと続く時間系列は、可能的な今の系列と見なされます。いま現実に今ではない過去や未来の時点も、今であることが可能なのだから、それらは可能的な今たと言えます。これは私でない他者を可能的な私と見なす議論につながるものです。どの過去やどの未来も、たまたま今になったりならなかったりするのではなく、いわば必然に(その時点において)今となる。どの他者も、たまたま私になったりならなかったりするのではなく、いほば必然的に(その人物において)私となる。こうした指標詞は明らかに現実とは異なる構造を持っています。にもかかわらず、今になることや私になることを可能性の現実化に喩えるのは、可能性という幻に関する言語の越境を許している。

この越境は、時間的動性の無視によるものです。未来が「今」に「なる」ことを可能性の現実化に喩えるとき、言語的な「ありうる」は「なりうる」に先立つように見えるし、それどころか、「なる」にさえ先立ってしまうように見えます。つまり、論理的可能性が様相とと無縁な単なる動性(時間的推移)に対してさえ、先立つかのような構図が得られる。

たとえ、この世界が本当は自由でなく、様相概念のすべては錯覚だとしても、未来が「今」に「なる」ことを同様の錯覚として片付けるべきではない。「ありうる」と「なりうる」がともに幻だとしても、「なる」が幻であるとは限らない。むしろ「なる」だけは生き残ったとき、私たちは無自由な世界を垣間見て、特殊な洞察を得られるのではないか。

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