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2017年10月25日 (水)

無知の知 考 その2

「無知の知」という言葉は高校あたりの教科書にも目にしたような記憶があるが、ソクラテスと関係してよく知られた言葉ではないか。しかし、プラトンの著作の中でソクラテスはこの言葉を一言も発していないという。そもそも「無知」というのは何も知らないということで、それに「知」がくっついている、何も知らないことを知っているというのは何か変だ。が、哲学者とか宗教関係が言うと、もっともらしく聞こえてしまって、意味ありげに変化する。何か普通に知っているということより、それでは不十分なのでもっと深く、こっちが真実に知っていることなんだよ、とでも言いたげな深遠な知のようなニュアンス。文献では、「無知の知」という言葉を使ったのは、中世の終わり頃の哲学者ニコラウス・クザーヌス。それが、どうしてかソクラテスの言葉になってしまった。

『ソクラテスの弁明』にも、そのように読むこともできないとはいえない。最高の知者という神託をうけて、ソクラテスはアテナスの知者を訪ねてまわって、その人たちが実はよく知らないということに気づく、というのが、そもそもの発端。でも、の後をよく読めば、本当はよく知らないのに、すべて知っていると過信して、知ろうとしない傲慢さ怠慢さを戒めているようなことは分かる。「無知」というと何も知らないということだが、そうではなくて「よく知らない」つまり、「すべて知っているのではない」という無ではなくて不十分さをソクラテスは言っている。人間が知るということには限界があるということだ。これは、何も哲学に限らず、我々の実感に合致する。例えば、専門的な学問を研究している人であれば、すべてが解明されているなどとは考えないし、知れば知るほど、未知の事柄が新たに増えていく。新しいことを知れば、知らないことが減るはずなのに、却って増えていく。このような、具体的なことに対する知識であれば、私たちだって、友人はAさんを知っているとはいっても、Aさんのすべてを知っているとは思わないだろう。言ってみれば、当たり前のこと。

しかし、その当たり前のことが存外難しい。例えば、私たちは、往々にして恋人のことをすべて知っているかのように行動してしまう。人生を長く生きると世の中のことはだいたい分かっていると思い込む。それに対して、自分の知っていることの限界を自覚するには、知ること以上に知性が問われる。

そのようなソクラテスに従えば、絶対的な善、つまり、誰からみても善であるようなことを知るとは言えないだろう。それは、人間の限界を超えているし、後のキリスト教であれば神の領域だ。おそらく、ここに至って、善のイデアを追究するプラトンとは決定的に対立する。そして、キリスト教とも。

しかし、むしろ、日本的(というものがあるとしてだが)な、ある意味で相対的に考える志向に、意外と親近的なような気がする。

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