「篠田桃紅 昔日の彼方に」展(3)


“あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音〔あしおと〕空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳〔かげ〕りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍〔いらか〕みどりにうるほひ
廂〔ひさし〕々に
風鐸〔ふうたく〕のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃〔いし〕のうへ”
という詩を題材としているというようです。本人は書として書いたのか、絵として描いたのか、そういう区分はしていないでしょうから、おそらく、その境界線にいるというスタンスではないかと思います。べつに、私がジャンルに固執する必要はないのですが、この作品をみようとすると、そのような境界線にいるということ、書でも絵画でもありうるという両者に共通している感覚的な美意識で見てしまうように思います。回りくどい言い方になっていますが、書であれば、書に特有の、書でしかありえないような特化した接し方、同じような絵画特有の接し方で、接しようとすると肩透かしをくってしまう。そのかわりに、新たな接し方を創造したということなのでしょう。例えば、この作品であれば、書かれている文字を私は読むことができませんでした。それは、書においても珍しいことではありませんが、その文字、あるいは文字のあつまった言葉、その言葉の集まった文章を全体として、流れというものがあります。それは、筆の勢いだったり、墨のにじみやかすれでから読み取るわけです。それが全体として、ひとつの流れのように、そこに筆を執って書いている人の、力の入り具合がわかり、そこに、その人の呼吸や気の流れ、身体の緊張などが想像できます。当然、人の呼吸は、波のようにリズムをもって流動するものですが、そのリズムに同化できることによって身体的なリズムで共感することができるわけです。それは、ダンスや音楽に近い感覚です。ところが、私が共感できないのかもしれませんが、この作品には、そういうリズムが聴こえてこないのです。先ほど説明した筆の勢いだったり、墨のにじみやかすれのヴァリエイションは多彩で、それ以外にも、線の太さや濃淡の変化が、字の大きさや形とマッチするように考えられて、組合せの多彩さは、見ていて飽きることがありません。しかし、それらが、ひとつひとつ独立している。言い換えるとバラバラで、全体として流れとなっているようには思えない。一種のパズルのようなのです。しかし、別の見方をすれば、細部をピックアップして、その意匠を吟味する、その細部の感覚は繊細で、美しいと感覚できるように構築されていると思います。その具体的なあらわれとして、一種シンボリックなあらわれですが、線が直線的で、直線の屈曲で字などの形がつくられているのです。曲線の滑らかさは注意深く排除されているように見えます。直線を屈曲させると、区切りをつくり、屈曲点の間は区切りのなかで明確に独立します。従って、明確に整理された構築が細部を見やすくします。そこで、細部に手をかければかけるほど際立たせることができる。その反面、曲線は区切りを生まず、ポイントは流れてしまいます。そのため、区切りは曖昧になります。しかし、そこにシロクロをはっきりつけられない微妙にニュアンスがうまれます。もともと人の身体とは、そういう割り切れないところがあり、それが共感を呼ぶことになるというわけです。だから、作品に対するスタンスとして、身体的に共感して没入するのではなくて、距離を置いて分析的に鑑賞するという接し方に近くなると思います。私には、その距離を、どの程度にとるのがいいのか、ベストポジションを見つけることができませんでした。

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