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2017年10月24日 (火)

無知の知 考

自分の知っていることの限界を自覚するということは、私は知っているというのは、知識そのものを持っているということはありえず、特定の具体的なことがらの知識ということだ。そうでなければ限界という区分ができない。だから、善ということ、これを仮によいこととか役に立つこととしてみると、個々のその時によって、あることは役立ち、あることは役立たない。また、役立つ人には役立つし、そうでない人には役立たない。つまり、それぞれに善であるということだ。従って、善は個別の具体的事象に限定されて、善と言えることと、そうでないことがある。ここで善を知るということは、そう言えるということだ。だから、どこから見ても善であることは知りえない。

しかし、それでは社会の中で様々な人間関係に対しての、よいこととか役に立つということは追いつかなくなる可能性が高い。社会においては、その時々において、あるいは関係する人々によって、よいこと、役に立つことが様々に変化する。個人と個人の間であれば、その時によいことは、変わらずによいことでありつづける蓋然性が高い。しかし、社会、もっと広げると国家であれば、その時々の状況によって目まぐるしく変化する。例えば、戦争でたくさんの人を殺せば英雄だけれど、平和な時であれば殺人鬼になってしまう。あるいは、団地の自治会で老朽化した建物の維持のために管理費の値上げを提案した場合、それはよいことであるとは限らない。つまり、強硬に反対する者が必ず現れる。その時、このような限界を自覚するような姿勢では、何が善であるかを知る、というより、そもそも知る対象に入ってこない。ソクラテスがアテナイの市民でありながら、市民の義務である政治への参加に消極的であった(それが彼が裁判で告発された理由の一つだ)。

そこには、どうしても個々の具体的な事象を超えた、上から押し付けるような真理が必要なのだ。ルソーが民主制においては多数派の意見とはべつに一般意思があるといったような。そして、やっかいなことに社会の理想とか未来の夢といったことは、そういう超越なしには成り立ちえない。いうなれば、ソクラテスは身の丈を知る堅実で謙虚な姿勢といえるが、大それた夢を描くということはできない。それが、プラトンやアリストテレスには物足りなかったのではないか。

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