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2017年10月 4日 (水)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(15)

3.論理的可能性

ある言語を「知っている」と言うとき。われわれはあたかもその言語について、有意味かつ可能な語の配列のすべてを手にしているかのように考えます。誰一人並べたことがなく、これからも誰一人並べることのない語の配列、つまり時間的には一度も実現されていない配列、もそれが有意味な文ならば可能的にある。すなわち、言語を知る者にとって、すべての有意味な文は、ないのにある。

例えば、足し算を知っていると言うとき、私たちはあたかも足し算について、有意味かつ可能な語の配列のすべてを手にしているかのように考えます。すなわち、足し算を知る者にとって、すべての有意味な足し算はないのにある。たとえば、792792+790661=1583453という足し算が、いま初めて達成されたものだったとしても、それ以前にもこの足し算は有意味な文としてあった、ということを私たちは、もともと知っていた、ということです。

ある言語における有意味な文の集合に関して、その言語を知る人は、任意の語の配列がその集合に属する文か否かをかなり正確に峻別できる。そしてその能力は、これまで現実に並べられた配列だけでなく、これから現実に並べられるかもしれない可能的な語の配列にも適用され、その適用の正確性について言語使用者は高い自負をもっている。このとき、その人物はあたかもその言語について、有意味な語の配列のすべてを可能的に手にしているかのように見える。

このような有意味かつ可能な語の配列は時間的に実現されるものでしょう。それゆえ論理的可能性は、それが語の配列可能性に依拠する以上、語の配列の時間的な実現可能性にも依拠せざるをえません。にもかかわらず、上の例のようように、私たちがある言語を本当に知っているのならば、論理的可能性は実現可能性から切り離されたものとなるでしょう。そのとき、語の有意味な配列可能性は、それが時間的に実現し得るからではなく、無時間的に成立し得るからこそ可能であると見なされます。これが様相の無時間化であり実現に関わらない可能性です。

では、西から陽が昇るというような常識とかけ離れていても論理的に矛盾がなければ良いということになる。

論理的可能性とは有意味かつ可能な語の配列のなかから無矛盾な諸命題を抽出した際、それらによって表象される事態のこです。そしてこの抽出においては、明示的な矛盾の有無だけでなく、非明示的な矛盾の有無が、つまり、ある性質と他の性質との矛盾の有無が問題になります。「白いライオン」は無矛盾ですが、「丸い四角」が矛盾ということになるのは、白いこととライオンであることのあいだに矛盾が生じていないのに対して、丸いことと四角いことのあいだには矛盾が生じると見なされるからです。こうして、論理的に可能な事態はタイプ的に構成され、論理的可能性の画定がこのタイプ的構成を要するというわけです。

 

4.タイプからトークンへ

固有名が用いられるときも、実質上、上記はあてはまるでしょう。織田信長についての論理的可能性は、信長のタイプ的な特性、例えば人間であることなどによって定まるのであり、それゆえ信長のある特性をもとに示された論理的可能性は、同じ特性をもつ別の存在にも当てはまることになります。この場合の信長の論理的可能性にどれだけの制限がかけられるのでしょうか。結局、それは個々人の直観に委ねられているということてしょうか。

ライプニッツによれば、主語概念(この場合の信長)には、その主語に現実に結びつくすべての述語が内属している。例えば、信長にとって、桶狭間の戦いで勝利したこと、比叡山を焼き討ちにしたこと、明智光秀に裏切られたことは、分析的に真です。それでは、信長が桶狭間で敗れた可能性については、現実世界以外の可能世界にいる、現実の信長にそっくりな人物(信長の対応者)についての事実といういうことになります。この場合、他の諸可能世界にいる信長は、現実の信長の諸性質をほとんど満たす人物です。ここで肝心なのは、いったん信長タイプ論理的可能性に吸収されることになるということです。信長という概念による論理的可能性は信長タイプに制約されます。だから、論理的に可能な事態は、この世の信長という個人との直接のつながりを持たない。信長タイプが百歳まで生きることが論理的に可能であるからと言って、その可能性はまだ、現実の信長その人に繋がっていません。そこには、普遍と個体との紐帯がないと著者はいいます。

現実の信長は信長タイプの一例ということになります。したがって、百歳であることが信長タイプにとって無矛盾であるなら、現実の信長も百歳であることが可能だということになります、しかし、現実の信長は五十歳で死んだのであり、それが事実であるからには、信長という人物が百歳でありえたという意味理解を拒むことができます。

現実の信長が個人として百歳でありえたということの正確な意味は、それが百歳になりえるということです。それが単に信長タイプの一例であるだけでなく、その個人自体として実現可能性をもつということです。その意味で、信長個人の実現可能性も、信長タイプの論理的可能性の内にありるます。

現実の信長その人についての論理的可能性というのは、ありません。そして、信長タイプについての論理的可能性現実の信長に結び付けるには、論理的可能性(ありうる)を実現可能性(なりうる)に昇格させなければならないということになります。

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